古代道路編。

本日は古代の道路についてです。



日本の道路に関する初めの記述は、3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」なのだそうです。

邪馬台国の都へと続く道について「土地は山険しく森林深く道路は禽鹿(きんろく)の小径のごとし。草木盛栄し、行く前を見ず」と書いています。

魏の使者には日本の道が獣道にしか見えなかったようですねぇ。

それから「日本書紀」にも「兵が二列縦隊では進めない」との記述があります。

どちらの記述も古代の道は残念だったのだなぁ、という事が良く分かります。。。



時は流れまして、こちらは律令時代(大化の改新以降の7世紀後半から10世紀頃まで)に整備された道です。

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現在でも使われている名前がちらほらですね!

これらの道をあわせて「七道」と呼ばれています。

この七道のうちの「北陸道」「東海道」「山陽道」「山陰道の中の丹波」は3世紀末にはあったのではないかとされています。

それは崇神天皇が四道将軍を各地に派遣したところから推測されるそうです。(四道将軍に関してはこちら→古代氏族 古代出雲2大勢力編 その2 出雲古禰。

で、道は大路・中路・小路と3ランクに分かれており、大路は山陽道のみ、中路は東海道と東山道、その他は小路とされたそうです。

大路も太宰府から先は小路とされたそうです。

都から太宰府に行く道のみが大路なので、太宰府までの道のりを重要視していたのがこの事から分かるそうですよ。

何があったのでしょうねぇ。

大陸へと出航する港が太宰府あたりにあったとかですかね?



道沿いには駅家(今でいうところの駅みたいなもの)が置かれ、大路の駅家には駅使と呼ばれる人たちが使う駅馬が20頭、中路の駅家には10頭、小路の駅家には5頭が置かれていたという事です。

ちなみに京都までの日数は徒歩でこんな感じだったそうです。

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運脚とは奈良・平安時代に租税である庸・調を徒歩で都まで運んだ人夫の事で、
奴隷みたいなものだったそうです・・・(´・_・`)



なんだか図を書いていたら時間切れになってしまったので、続きはまた明日に。

それでは良い位置に血を←すごい変換ですね・・・(゚o゚;;

これは保存版です(`・ω・´)+



では改めて、良い一日を~。

何だったんだ、あの変換は・・・。

思わず噴いて鼻水出ました。







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by garoumusica | 2015-10-28 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)

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