カテゴリ:古代氏族( 51 )

本日はネットサーフィン中に見つけた、出雲市の長浜神社の話です。




はい、ネットサーフィンをしていたところ、島根県立古代出雲歴史博物館のfacebookに辿り着きまして。

なんとなく読んでいたら、なんと!出雲の語源の解説がありました!


これによりますと、出雲市にある長浜神社にその回答があるとの事。

長浜神社の位置を昨日の古代の島根の図に描き足してみました。

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赤字のところです。

ぴょこんって飛び出していたところの下側の所に当たると思われます。

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↑出雲大社の雲の横辺り?



この長浜神社のある地域では、忌明(いみあけ・きあけ)に海で身体を清めた証に、海岸に打ち上げられた海藻を持って神社にお参りする習慣があるのだ(あったのだ?)そうです。

で、海藻というのは出雲では神様の食事となる神聖なお供え物なのだとか。

そしてその海藻は「厳藻(いづも)」と言われ、「出雲」の語源になったようです、との事。

はーーー・・・。

海藻由来説が強いですね・・・。

長浜神社は出雲郷ですしねぇ、バッチリです。



なんとなくですが、スーさんの『八雲立つ~』の原文が気になったので載せていきます。


『古事記』

夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁

『日本書紀』

夜句茂多兔 伊弩毛夜覇餓岐 兔磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻


出雲が原文では「伊豆毛」「伊弩毛」なのですねぇ・・・。

そして不思議な事に『日本書紀』の方の「いづも」の「づ」に当てられた「弩」という字の読みは「ど」。

中国の読みは「ヌウ」。

なんでこの字を当てたのか不思議です。



ではでは、いつから「出雲」と書く様になったのか?

実は『日本書紀』の垂仁天皇の野見宿禰に相撲を取らせる話の所では「出雲國」となっています。

それ以降の出雲古禰の神宝を強奪した話の時も「出雲國」となっていました。

なんでしょうね?これは・・・。

スーさんの時代から垂仁天皇の時代の間に変わったって事でしょうか?



ついでに『古事記』の景行天皇のところで、ヤマトタケルが出雲建(イズモタケル)を殺害した後、この様に詠います。


夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮

やつめさす 出雲建が 佩(は)ける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ


この中に出てくる「やつめ」。

これは「弥津米」で「多くの海藻」。

「さす」は刺し並べる。

「いづも」は厳藻で神聖な藻の事。

そして、「やつめさす出雲」は「多くの藻を採って来て刺し並べて神聖な藻とした」と考える説があるそうです。



「出雲」の由来は「ワカメ」が有力!?


明日はきちんと昨日の続きをします(`・ω・´)+


・。.:*(・ω・)・。.:*(・u・)・。.:*(・v・)・。.:*


それでは本日も良い一日を~。

スーさん 「喉が痛むようだね」

musica 「気温の変化が激しくって・・・」

ス 「だからいつも気温の変化には気をつけろとあれだけ(略)」

m 「皆さまも体調管理にお気を付け下さい」

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by garoumusica | 2016-04-08 05:06 | 古代氏族 | Comments(0)
本日は古代出雲の海洋交易ルートと地形について調べていきたいと思います。




古代の出雲の交易はだいたいこんな感じだったそうです。

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新しく描くのが面倒だったので使い回しで朝鮮半島の欠片もありませんが。

以前ご紹介したCGでよみがえる古代出雲王国 という本↓。

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この本によりますと、古代出雲が最盛期を迎えていた弥生時代、朝鮮半島の鉄製品と越のヒスイが主力商品だったのだとか。

今も良く聞く糸魚川のヒスイですねぇ。

朝鮮半島の鉄製品は、当時の日本ではまだ鉄製品を作る事が出来なかったので、朝鮮半島からの輸入が唯一の仕入れルートだったのだそうです。



で、なんで出雲だったのか?と言うと、北九州・朝鮮半島南部・越の中間に位置していたのが出雲だったからなのだそうです。

つまりハブ港として優秀だったのです。

もう一度上の地図。

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なるほど・・・。

古くは縄文時代から、出雲は朝鮮半島と交易があったそうですよ。

そのうち朝鮮半島で鉄の確保が難しくなると、今度は吉備から輸出する様になったり。

こういう交易のルートがオホナムチさんの分布範囲となっていくようです。

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で、こんなのも描いてみました。

古代島根半島の図です。

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淡い水色の部分は現在は陸地となっている部分ですが、出雲平野が水に浸かっています。

出雲平野ってどうも出たり消えたりしていたみたいです。

面白い資料があったので、お時間のある方は覗いてみてください→出雲平野と宍道湖・斐伊川の砂

参考までに↓。

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これ↑は古代の地図を描くのが面倒だったのと、参考にして本も現在の地形だったので、現在の地図に郡名を書いたものです。

皆さまの心の目で、古代出雲の地形に変換して見てください。

(↑描き直すのがめんどいだけ)

という訳で、本日は古代出雲の交易と地形を調べてみたでした。

明日はこれをもうちょっと詳しく見ていきたいと思います。


☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡


ところで本日は、古代出雲の地図の一番右端にある美保神社の例大祭の日です。

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青柴垣神事(あおふしがきしんじ)と言うのは、『古事記』の国譲りの時に事代主の入水(自殺)の故事を儀礼化しそれを模倣した神事だそうで・・・。

いわゆる遺体捜索を起源とする鎮魂の形とも言われるそうです。

上の図を描いた時になんとなく気になって美保神社を調べたら、調度その神事の行われる日だったっていうのが何とも言えなかったです・・・(´・ω・`)。

美保神社のホームページの青柴垣神事の解説ページ→美保神社 青柴垣神事 

美保関地域観光振興協議会公式ホームページの解説ページ→青柴垣神事

本日は春の嵐ですけど、神事に影響がないといいですねぇ。


☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡.。.:*・☆彡


それでは本日も良い一日を!

musica 「パナマ文書、各国が協力して無かった事になるかと思いましたが、早くも影響が出始めましたね」

スーさん 「この様な公共の場では私はノーコメントだよ」

m 「隠し事が表沙汰になる時代ってやつですか?」

ス 「君の意識が求めるなら、君の見る世界ではその様な流れとなろう」

m 「一般的な回答ですね。。。」

ス 「私には立場があるのだ、立場が」

m 「世界を混乱させて、何から目を逸らさせようとしているのですかね?」



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by garoumusica | 2016-04-07 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
はい、本日は『出雲国造伝統略』を読むの続きです。




前回は第4代出雲国造の津佐命と第16代意宇宿禰さんの所には「稱」という字が使ってあって気になる~、というところで終わりました。

で、その時に私は「意宇という名は当時から使ってたのか。。。」と書いたのですが、これちょっと書き方がおかしかったです。

昔は何々邑(むら)の○○さんって言う呼び方だったので、これは「意宇邑の宿禰」って感じだと思われます。

そして宿禰っていう洒落た名前は後々付けられたものの様な気がするので、多分「意宇邑の足奴(そまぬ)」が本名だと思います。

ただの思い込みですが。



それにしても足奴っていう名前、変わってますね・・・。

「奴」っていう漢字を使っている事が気になって調べてみたら、奴(ぬ/やつこ)は男性の奴隷の事なのだそうです・・・。

ヤマト王権によって部民制(べみんせい)という、王権への従属・奉仕の体制、朝廷の仕事分掌の体制が敷かれ、その時に奴隷制が出来たのだそうです。

うーーーん・・・。

意宇宿禰だとなんかすごく立派な感じがしますけど、足奴だとヤマト王権にどのように扱われていたかが分かる気がしますね・・・。

「足」もどうなんでしょうね。

はじめは「足が速い奴」とかそういう意味かと思っていましたが。。。

意宇宿禰さんは『日本書紀』のエピソードでも嫌がらせを受けていましたし、ヤマト王権側からすれば奴隷的な立場だったのでしょうか・・・?

なんか意味を調べるんじゃなかった。

こういうのって落ち込みますねぇ。



そして今気がついたのですが、意宇宿禰さんは仁徳天皇の時代にヤマトの屯田司(みたのつかさ)の任務に就いていましたが、畿内に居たのにどうやって出雲国造の任務を果たせたのですかね?

『日本書紀』に屯田司の職を立派に果たしている話が載っているくらいなので、屯田司であった事は間違いなさそうですし。

でもそうしたら、出雲国造として杵築大社で神職を務められるのか・・・?

やっぱり出雲国造は『出雲国造伝統略』にある通りに、第17代出雲宮向からなのでしょうか。



で、今、更に宿禰って言うのも調べてみたら、名前ではなくて豪族などの有力者に用いられた尊称の意味合いが多かったそうです。

となると、意宇宿禰は「意宇の豪族」みたいな意味合いだったのですかね?

結構適当な扱い?

うーん、それでも『出雲国造伝統略』では褒め称えるという意味を持つ「稱」を使うくらいなので、出雲国造家においては重要な位置にいる人だと思うのですが。

意宇という土地柄がポイントな気がするのですけど・・・。

出雲国造家が管理していた熊野大社もありますしね。

ここは再度調べ直しですね!(`・ω・´)+



あ、そう言えば「稱」を使われていたもう一人のお方について調べてみましょう。

第4代出雲国造の津佐命は、またの名を神狭命(かむさのみこと)と書いてあります。

なんかこの人を調べてみたら、まためんどくさい事が出てきました。。。

なんでも、无邪志(むさし=武蔵)国造の兄多毛比命(えたもひのみこと)は、この神狭命の10世の孫らしいです。

そして兄多毛比命は物部氏の一族なのだとか!

そして氷川神社に繋がるらしい・・・。

えー、うそん。

私はこれを調べなきゃいけないんですか?めんどくさい・・・。

ねぇスーさん、これはまた今度にしていいですかね?

これを調べるのは大変だし、ちょっと今の流れから離れすぎる、と書いたら目の前に大きな白い丸が!

という訳で、なんだか壮大な事が分かったところで、この件はまた今度です。


明日は古代における意宇とはどんな場所だったのか、とか、古代出雲で栄えたと思われる船の泊まれた港の位置などを探っていきたいと思います。


*:.。..。.:*ヽ(*゚∀゚)ノ*:.。..。.:*ヘ(゚∀゚*)ノ*:.。..。.:*


それでは本日も良い一日を~。

昨日ついに、じぇいど姐さんから頂いた桜が開きました・・・!!!

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musica 「可愛らしいですねぇ・・・」

スーさん 「花は喜んでもらえると嬉しく感じる。そしてその気がまた人に返る

m 「植物から気をもらうって良く聞きますが」

ス 「贈り合いだね。決して一方通行ではない。花を愛でるとはそういう事だよ」


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by garoumusica | 2016-04-05 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
はい、という訳で、再び出雲国造と淤宇宿禰のお勉強です。




出雲国造について調べ直していたら、知らなかった事を知りました。(←?)

出雲国造家が「出雲」の姓(かばね)を賜ったのは、第19代允恭(いんぎょう)天皇元年(412年)、もしくは第18代反正(はんぜい)天皇4年(409年)で、第17代国造宮向の時代なのだそうです。→近代デジタルライブラリー 『出雲国造伝統略』

「出雲」の姓(かばね)を賜ったのが409年、もしくは412年・・・。

大化の改新が645年。

それから646年に改新の詔(かいしんのみことのり)が発せられて、畿内・国・郡といった地方行政組織の整備をされます。

うーーーん、出雲という国名が確定したのはここだと思うのですが、それよりも前に出雲の姓を賜っている・・・。



ところでリンクを貼った近代デジタルライブラリーの『出雲国造伝統略』。

初っ端に天照大神と須佐之男命の名があるのが良いですねぇ・・・。

とってもきれいな字、これは彫ってあるのですかね?

17ページにはひらがなが出てきますが、これもまた美しい。



さてさて、内容を確認していくと第11代出雲古禰が載っています。

載っていますが、阿多命(あたのみこと、で良いのでしょうか?)、またの名が出雲古禰という記載になっています。

案外、出雲古禰という名は後の創作であるかもしれない・・・。

だとしたら、彼の生きた3~4世紀にはやっぱり出雲という名は無かったかも?



そして意宇宿禰は意宇足奴(おうそまぬ)という名がメインで載っています。

意宇という名は当時から使ってたのか。。。

ここでちょっと気になるのですが、「稱」という字はどういう意味なのでしょう。

「亦稱意宇宿禰」と書いてあるのですが、出雲古禰の時は「亦名出雲古禰」と書いてあるのです。

なんか引っかかる・・・。

何より読みも分からないですし。

調べてみましょう!



「稱」

音読み:ショウ

訓読み:あ(げる)、かな(う)、たた(える)、とな(える)、はか(る)

あー、「称」の旧字体なのですか。

あれ?ちょっとまって?

「称」っていう字には「褒めあげる」とか「讃える」っていう意味もある・・・。

他の人には「名」とか「作」という字で書いているのに、意宇宿禰には「称」をあてたのですか?

なんて言うか、特別扱い?

それとも考え過ぎ?

「称」の字を当てている人物は他には4代の津佐命で、別名は神狭命。

祖神天穂日命の曾孫にあたります。



本日分かった事は、この二人には「称」の字をあてているという事。

以上です!

詳しく考えるのはまた明日!(`・ω・´)+


( ・_ゝ・)o*――゚+.――゚+.――゚+.――゚+.――*o(・c_,・)


それでは本日も良い一日を~。

スーさん 「昨日の画像を載せてはどうかね?」

musica 「スーさん神社のアレですねw」

美しく咲きました。

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ビフォー↓。

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そしておみくじメッセージは、

「何事も時の至るまで天に任せよ」

でした。

俺に任せろ!ですか、カッコいいですねw

さっすが〜( ´ ▽ ` )ノ



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by garoumusica | 2016-04-03 05:00 | 古代氏族 | Comments(4)
という訳で、よく分からなくなってきたのでスーさんとおしゃべりをしてみたいと思います。




スーさん 「それで?」

musica 「こんがらがってどうしたら良いか分からなくなったので、思わず助けを求めてしまいました」

ス 「そうか。それでは整理してみよう。君が今必死になって出雲について調べているのは何故だったかね?」

m 「えっと、長髄彦さんのお父さんが事代主だったからです」

ス 「そうだ。そして物部氏の祖神である饒速日の妻が彼の妹だった。そして更に磐余彦の妻である媛蹈鞴五十鈴媛が大国主の荒魂である大物主の娘であった。それ故君は大国主と大物主に関して調べたのだ」

m 「はい」

ス 「それで君の中ではどう考えているかね?」

m 「出雲の大国主の神話は・・・、ていうか国譲りの神話は捏造だと考えています」

ス 「その根拠は?」

m 「えーっと、坂本さんの説が第一で、後は色々と調べた内容を総合した結果、かな。大物主さんを調べていくうちになんとなく」

ス 「そして君は、桜井市の出雲が本来の出雲であったのではないかと考えるようになった」

m 「はい。島根の出雲という地名は思っていたよりも古くない様なので・・・。神武東征の時にヤマトの地にすでに出雲があったのだとしたら、多分こっちの方が古い」

ス 「それが昨日の記事の内容だね」

m 「そうです。『出雲国風土記』の解説に出雲郡は意宇郡の一部だったという説もあると書いてあったのを見て、ますます出雲とは一体何なのか?という感じになったのです」

ス 「それを判明させてどうする?」

m 「出雲の国名が大化改新の時に付けられたのだとしたら、須佐之男命の『八雲立つ』以降の出雲神話を崩す事が出来るからです」

ス 「何故崩したい?」

m 「スーさんの神話を失うのは嫌です。ですが天孫族の創り上げた神話に踊らされるのは、もっと嫌だからです」

ス 「私を失っても?」

m 「確かに須佐之男命は失うかもしれません。でも、今ここにいる私の知っているスーさんは何も変わりません」

ス 「私への愛故か・・・」

m 「そんな事は一言も言ってません」

ス 「ハハハ。君は以前記事に古代の出雲東部は隣の伯耆国の一部だったと書いたね」

m 「はい。大化の改新以前の話だそうです。出雲と伯耆、どっちがメインだったかは分かりませんが」

ス 「出雲古禰が大和朝廷によって殺害された時も東部は黙認をしていた」

m 「そうらしいです。で、これらの事を総合して気になるのは、何故出雲国は出雲国という名になったのか、という事です。出雲古禰は死に、意宇郡を本拠地とし東部を治めていた豪族・淤宇宿禰(おうのすくね)は残りました。もちろん、出雲古禰の一族全員が亡くなった訳ではないので出雲一族は残るのですが、これを機に出雲古禰の一族は大和王権に制圧される流れです。そして大化の改新後に国府が置かれたのは意宇郡です。それなのに何故、国名が『出雲』になるのか」

ス 「うむ。ところで君は淤宇宿禰に関してひとつ大事な事を忘れている」

m 「大事な事?」

ス 「調べてみなさい」

m 「えーっと、名前の検索でいいのかな?とりあえず初っ端に出て来たやつを見てみますね。・・・倭(やまと)の屯田司(みたのつかさ)?何でしたっけ?(自分のブログを調べる)あー・・・、天皇の直轄の領地の田の管理・経営する人の事・・・」→古代氏族 古代出雲2大勢力編 その3 淤宇宿禰。

ス 「しかも屯田司も大化の改新以前の役職だ。出雲+伯耆だった時代と同じだぞ。君は淤宇宿禰に関してすっかり忘れているようだね」

m 「ほんとだ・・・。それに神話的には出雲古禰が11代出雲国造って自分で書いてる。すっかり忘れていました。出雲古禰が11代出雲国造なら、それもあって小さな郡名である出雲が国名となったのかもしれない」

ス 「君は事実を追求しようとするあまり、『日本書記』の内容がすっかり抜けてしまっていた訳だ」

m 「・・・でも、出雲国造は実際には26代の出雲果安からだと言われていますし・・・」

ス 「もう一度ここを整理しなさい。出雲の地名の由来の調査が頓挫した今、手がかりとなるのは淤宇宿禰と出雲国造だ。出雲は物部氏にも繋がる。時間が掛かっても良いからきちんと理解する事、いいね?」

m 「はー・・・ぃ」

ス 「何だね?その気の抜けた返事は・・・」


という訳で、もう一度出雲をやり直しです・・・。


■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■゚Д゚■


それでは本日も良い一日を~。

ス 「新年度だ、気も新しく入れ替わる。心機一転で頑張りなさい」

m 「・・・」

ス 「始まりからその様な様子でどうするのだ・・・」

m 「めんどくさい・・・」

ス 「仕切り直しだ、新しい気持ちで取り組もうではないか!」


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by garoumusica | 2016-04-01 05:00 | 古代氏族 | Comments(4)
はい、という訳で昨日の宿題『出雲国造神賀詞』について、昨日のまとめを基に考え直していきたいと思います。




時は716年、平城京において奏上された『出雲国造神賀詞』。

その内容は、まずは天皇に対する挨拶とほんのり出雲の自慢と、これだけ禊ぎして来たぜ、みたいな感じです。

次に古事記に書かれた国譲りの場面での自分達の祖神に対する誤り(?)を訂正。

そして天皇の健やかなる毎日をお祈り。

で、気になった内容と言えばこれでした。


『己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき』


例のアレです。

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都は既に平城京であるにもかかわらず、白梼原宮(かしはらのみや)、もしくは藤原京を出雲の神々は護ってるぜ!的な内容だったやつです。→古代(略)その6 出雲国造神賀詞に秘められたモノ?

それを受けて私は「遷都した後の事は、一切関知致しません」って、わざわざ宣言している様にも聞こえる気がする、と書いたのです。



藤原京は『日本書紀』では新益京(あらましのみやこ)、万葉集ではこの京が藤原という地名の場所にあった事から藤原宮と呼ばれていたのだとか。

なので決して当時猛威?を振るっていた藤原不比等由来ではありません。

710年の平城京遷都までのわずか16年間(持統・文武・元明三代)使われていただけの都でした。

なんだか一説によると下水事情が良くなかったそうで、臭かったらしいです、都が。

くっさいし、不衛生で疫病の流行も懸念されたので、藤原不比等が猛プッシュして平城京に遷都したそうです。

そして『出雲国造神賀詞』の奏上が716年。

遷都していても、出雲国造は相変わらず白梼原宮や藤原京の地を護っていますと奏上しています。

改めてこれは一体どういう事なのか?と考えていたら、この様な資料と出逢いました。


お高くて手が出せない物部氏の研究という本を書かれている歴史学者さんの論文です。

この小考によりますと、この神賀詞の内容が藤原京の時代に考えられたのではないか、とありました。

という事は・・・、どういう事だ?(´・ω・`)

遷都したのに藤原京用の内容のまま平城京で奏上しちゃったって事?

なんだかそれも不思議な感じがしますね。

あ、でも、平城京で奏上した時の天皇は元明天皇(げんめいてんのう)で、遷都前の707年に藤原京で即位した天皇だから、そこまでイヤミでもなかったのかもしれません。

それに実質的に政権を握っていた藤原不比等の藤原と藤原宮をかけて、出雲は藤原氏をお護りしていますよ☆的なおべっかともとれなくもない・・・。

おべっかと神話の訂正をする『出雲国造神賀詞』。

出雲国造が畿内の大物主一族に対してどのように思っていたのかが分かれば良いのですが・・・。



さてさてもうひとつ追加です。

出雲の国名と桜井の出雲の地名に関する事です。

桜井の出雲の地名に関して、この様な考え方を思いつきました。

『くも』という名称は天孫族が原住民に対して付けた蔑称、『土蜘蛛』に通じるのではないかと思ったのです。

ミムロ山に居住していた原住民であった大物主一族。

『蜘蛛が出没する』=『出づ蜘蛛』→『出蜘蛛』→『出雲』

ありそう・・・。

ありそうなのですが、おっさんが

「磯城・十市の前の名称が出雲だとしたら、蔑称であるはずの土蜘蛛を原住民族が自ら名乗っていた事になるぞ(笑)」

って・・・。

現在に残る桜井市の出雲だけだったら、これでも大丈夫な気がするのです。

三輪山に隣接する土地柄を考えると、

「ミムロ山に居住していた原住民族・大物主一族の生き残り=蜘蛛が出没する地」

として、天孫側に名付けられた地名でも全然おかしくないのです。

が、問題は磯城・十市。。。



これを解く鍵が島根の出雲の由来だと思うのです。

それの手掛かりが、また『出雲国風土記』・・・。

これも気になる事が一杯残っているのです。

何故記載が意宇郡からなのか。

何故国名と同じ出雲郡からではないのか。

と思って『出雲国風土記』を読み直していたら、見落とし部分を発見しました。

なんと!意宇郡は杵築大社(出雲大社)のある出雲郡も含まれていた、という説があるそうなのです!

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という事は、島根の出雲という地名は古代においては無かった可能性もある・・・?


明日に続きます。


。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。


それでは本日もよい一日を~。

スーさん 「年度末だ。取りこぼしの無いよう心して過ごしなさい」


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by garoumusica | 2016-03-31 05:12 | 古代氏族 | Comments(0)
本日はどういう内容を書くのかなぁと思っていたら「纏めろ」との事なので、まぁとりあえず纏めていこうと思います。




今まで調べてきた結果私が思うのは、

・出雲の国譲り神話は畿内が舞台

・大物主≠大国主≠出雲国風土記のオオナムジ

だという事です。



出雲の地に何らかの王権の様なものはあったけれども畿内に君臨する事は無く、勢力範囲は広くても四隅突出型墳墓の分布地域が限界。→古代(略)その10 四隅突出型墳丘墓と遠賀川式土器。

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とは言うものの、ネットで公開されている「国際シンポジウム『古代東アジアにおける都市の成立』」の報告資料( 日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から)を拝見すると、纏向遺跡では様々な地域の土器が発掘されているそうなのです。

その約半数が東海産、17%が山陰・北陸産、10%が河内産、7%が吉備産だとか。

出雲は山陰ですので、北陸地方と合わせた数ですが17%もある訳ですから、出雲の人々が畿内に進出していた事は確かです。

なので出雲出身者が集った出雲邑があってもおかしくはないと思いますが、邪馬台国の中心地だったと思われる磯城・十市に、少数の他国の人達が占拠していたっていうのは、なんだか無さそうな気がします。

そして磯城・十市の地が本当に出雲と呼ばれていたのだとしたら、現在出雲と呼ばれている場所が古代においても出雲と呼ばれていたのかは疑問です。

出雲の国譲り神話をでっち上げた時に前ヤマト王権を消し去る為に、大陸との交易で独自の発展を遂げていた現出雲の国を「出雲」と名付けた気がします。←自信が無い。

ですがそうすると、出雲国風土記に出て来ない事代主(『記紀』では弟磯城)と建御名方(兄磯城)もスッキリする気がするのです。

特に建御名方の諏訪への逃亡も、畿内からだったら距離的にも納得出来るのです。



で、三輪山に祀られている大物主=蛇とは何なのか・・・。

私は去年の日向旅の時におーくにさんから白蛇を渡されて大神神社へ招待されたので、やっぱりそこが気になります。

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すむちゃんです。


大物主さん自体は神武東遷の時に殺されて大神神社に祀られた(封印された?)のだと思うのです。

大物主さんだけでなく、事代主さんとか、その他の子も。

そして神武の宮を護る様に配置された。→古代(略)長髄彦と神武東遷編 その5 出雲国造神賀詞。

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じゃあ大物主=蛇は?というと、元々ミムロ山にそういう信仰があった為だと思われます。→スーさんに問う!「習合」ってなんですか?

それに殺された大物主さんを祀ったものと習合した結果、大物主=蛇となったのだと思うのです。

これは民衆が勝手に習合したのか、『記紀』を作った時に意図的に習合したのかは分かりません。

ただ、それだけ蛇信仰がこの地に根付いていたという事だけは分かります。



で、この蛇の正体は龍型シリウス人らしいです。

身体の無い宇宙人らしいですよ。

スピ系ブログらしい展開になりましたが、私はこういうのはさっぱりなんでこれ以上は突っ込みませんが。

古代の縄文人は龍という概念が無かった為に、龍型シリウス人を蛇として認識したみたいです。

ほんと、こういうのさっぱりなんで分からないんですけど、おっさんが書けって言うから・・・。



まぁ、こういう感じで纏めてみました。

あ!出雲国造神賀詞について触れるの忘れてるって!

あー・・・、もう時間が無いから、また明日(`・ω・´)+


(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)


それでは本日も良い一日を~。

おーくにさん 「分からない事を無理矢理に理解しようとせずとも良いと思うがね」

musica 「そうですねぇ、時が解決してくれることもありますし・・・。だけどおっさんが・・・」

スーさん 「挑戦するという事も大切だ。人は成長をする為に生れてくるのだから」

m 「・・・」


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by garoumusica | 2016-03-30 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
前回は徐福さんがどうのこうのとか、ユダヤの人がどうのこうのとか、ちょっとめんどい感じで終わりましたが、とりあえずは初めに書こうとしていた事を記事にしていこうと思います。

日本名物「先送り」です。




前回は、なんで大陸の人がわざわざ日本に辰砂・水銀を購入しに来ていたのか、という感じの内容でした。

本日は大物主さんとミムロ山(三輪山)と纒向市場です。

大物主さん一族が暮らしてたミムロ山は、宇陀で採れた辰砂・水銀を纒向市場へと運ぶ運搬路でした。

もちろん運搬路は何種類もあったそうなのですが、長谷山からミムロ山の山頂に至る尾根道が最も最短で歩きやすく、何より安全だったのだとか。

以前、桜井市出雲のgoogle mapsをリンクしたのですが、その時に地形図で見ると三輪山の山頂と出雲の地区の最も高い位置が一緒、というような事を書いたのです。→google maps 桜井市出雲

で、なんでそれをわざわざ書いたのかというと、古代に宇陀から辰砂を運んで来た人達が通る道に、出雲の地名があり、そしてその場所を管理し住んでいたのが大物主の一族だったからです。

だから何?と言われたら困るのですが、山の麓部分だけを出雲と呼んでいるのではなくて、きちんと山頂部分をも含んでいるという部分が琴線に触れたのです。

あ、ここがポイントだ!と思ったんですけど、困ったな。。。

なんて説明したら良いのか分かりません( ; ; )

えーっと、なんだろう?つまり、少なくとも古代とか中世の出雲の地の人々は、大物主一族、もしくは民の人な感じがする、でしょうかね?

あれ?よく分かりません、宿題にします(`・ω・´)+



そう言えば、奈良の地図って書く気にならないのですよ。

Googleの地図のリンクばかりなのはそのせいです。

大和の話って近畿地方の地理の理解がとっても重要なので、地図を書かなきゃいけないのは分かっているのですが、やる気が出ないというか・・・。

今まで散々めんどい図を書いてきたのになぁー・・・、なんでだろう?

私的には不思議な話です。



まぁ、という訳で大物主一族がミムロ山に居住し、ここから纒向市場を管理していたのだそうです。

なんで山を拠点に?って感じですけど、昔は奈良盆地は水害に襲われる事が多く、標高の高い位置に暮らした方が安全だったのだそうです。

それに市場を狙う輩も多かったようで、そのような時は山へと移動して戦った方が地形を知らない人達よりも有位に戦えたのだとか。

例えば磐余彦さんが初戦で長髄彦さんにあっさり破れたのも、地形を知らなかったが故でした。

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③の白肩津です。


その磐余彦さんが勝利を収められたのは、土地勘のある人達が天孫側に寝返って導いた事が大きく働きました。

その後磐余彦さんは磐余山を拠点にツバ市という市場を開きます。→google maps 磐余山(現・東光寺)

そして大物主さんが作った辰砂を尾根伝いに三輪山へ運ぶルートを、磐余山へ運ぶルートへと変更させ、纒向市場を閉鎖に追い込みます。

このツバ市は藤原京の廃止まで続いたそうです。



そう言えば書きそびれていた事がありました。

大物主さんが運営をしていたと思われる纒向市場ですが、この市場の事は「オオ市」と呼ばれていたのだそうです。

大物主の「オオ」ですかね?

あ、逆に大物主の「大」が、オオ市の「オオ」から来てるのかもしれません。

「物」は、古語辞典を開いてみると色々と意味はあるのですが、その中でも人に当てはまりそなものは、「人」「超自然的な力を持つ存在」「鬼神」「怨霊」と言うのがありました。

もし、大物主さんが人々に慕われ尊敬されて「大物主」と呼ばれるようになったのだとしたら、「超自然的な力を持つ存在」っていうのが当てはまりそうです。

「主」はそのまま「オオ市の主」。

これらを合わせて「偉大なる力を持ったオオ市の主」で「大物主」と呼ばれる様になった、という気がしました。

これだったら初代大物主、2代大物主とか代々受け継がれる名称でもおかしくないですしねぇ。



さらに言うと、辰砂は朱砂(しゅしゃ)とも呼ばれます。

そしてこの朱砂を扱った王として、「朱砂の王」との名称があってもおかしくありません。

で、「しゅしゃのおう」の響きが「すさのお」に似ていない事もない・・・。

「すさのお」=「須佐の王」という解釈もありますし、まぁなんとも言えないですが。

でも「朱砂の王」の息子が「オオ市の偉大なる主」っていう流れは、さもありなんです。


ひとまず大物主さんと三輪山は終わるとして、明日はどういう内容になるのか・・・。


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それでは本日も良い一日を。

スーさん 「疲れた時には好きな守護存在の色をした光に包まれるイメージをしなさい」

musica 「来てくれるのですか?」

ス 「各々の個人的な守護を通してなんらかの癒しがあろう」


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by garoumusica | 2016-03-29 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
あー・・・、晩御飯にクロワッサン2個食べたので胃がもたれて気持ち悪い・・・。

調子に乗るんじゃなかった・・・。

あー・・・。




はい、と言う訳で蓬莱山の続きです。

はー、不老不死の薬ですよ、水銀が。

今の私には不老不死の薬よりもガスター寄越せって感じですけどね。

で、水銀を不老不死の薬と位置付けたのが道教なんだとか。

なんでも水銀を主薬とする不老不死の処方は700を超えるとされ、処方の研究を練金道(術)と呼び、その成果の調合薬を「金液丹(きんえきたん)」と呼んだのだそうです。

その結果、紀元前200年頃から10世紀までに歴代の皇帝11人が水銀薬禍とみられる死に方をしているのだそうです。

この数字は多いのか少ないのか分かりませんね・・・。

と書いたところ、皇帝という立場の人間は、水銀中毒で死ねるほど平穏に生きられる事自体が難しかったのだ、だそうです。

なるほど、国と命を狙い狙われの商売ですもんねぇ。

水銀中毒で死ねる事自体少ないのか・・・。

死人を出しても衰えの知らない水銀信仰。

なんと!薬効が無いのは大陸産の水銀の質が悪いから!と考えられる様になったのだそうです。

なんて都合の良い考え方・・・。

で、最上級の物は蓬莱山のもの、その代用品として宇陀産の辰砂を、となったのだそうです。



蓬莱山と言うのは、中国、渤海にあったという伝説上の神山で、神仙(しんせん=仙人)が住み、不老長寿の薬があると信じられていたそうです。

蓬莱山・瀛州(えいしゅう)山・方丈山という山3つで三神山と呼ばれていました。

古代中国の歴史書『史記』にはこうあるそうです。


「三神山は渤海の中のあまり遠くない処にあるという。

そこに行った者の話では、三神山には多くの神仙が住み、不死の薬がある。

物や禽獣は皆白い色をしており、宮殿は金銀で出来ているという。

斎や燕の国王が使者をやって三神山を探させたが、船がそこに着きそうになると風で引き離された。

三神山は遠くから見ると霧のようだが、近づくと水面下にあるように見える。

そこまで行くと風が船を引き離して、到着出来た者は誰もいない」


もうね突っ込みどころ満載ですね。

「そこに行った者の話では」としながらも、「到着出来た者は誰もいない」とか言っちゃってますし。

「三神山は遠くから見ると霧のようだが、近づくと水面下にあるように見える。」っていうのも、これは蜃気楼の事なのだそうです。

蜃気楼を見て不老不死の薬がある場所だと言って、皇帝に多額の金を出させ船出する。

愚かですけど、この愚かさは現代に通じるものがありそうですね。

私もiPhone5が全然現役なのに、iPhoneSEのローズゴールドを仮予約しちゃって・・・。

壊れるまで使う主義で来たのに、ついつい目新しくって、色もかわいいし・・・。

4インチサイズがちょうど良いし、あー、もうどうしよう〜。

まぁそれは良いとして、今は不老不死問題。

元々あった東シナ海を渡っての日本との交易、それと蓬莱山が結びついたのが宇陀産の辰砂・水銀だったのだとか。



もちろん、辰砂・水銀の役目は不老不死の薬だけではありません。

近年だと体温計・蛍光灯・水銀灯・朱肉・水銀電池・赤チンだとか。

他にも殺菌・消毒作用を利用したシラミ取りだとか梅毒の治療薬だとか。

それにおしろいにも使われました。

古代では錬金術の他に、顔料して使われたそうです。

古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使われたり、漆器に施したり朱墨の原料になったそうなのです。

『魏志倭人伝』の邪馬台国の項にも「其山 丹(辰砂)有」と記されているのだそうです。



ちなみに『魏志倭人伝』の約400年前に、秦の始皇帝に命を受けて不老不死の薬を探しに来た人物に、徐福さんという方がいらっしゃいました。

そう、あの人です。

以前、一時的にスーさんに読むのを制限されていた本、『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』の人です。

ここでもなんとか物部氏と繋がりましたねぇ・・・。


あれ?ちょっと待って!?

今やっている内容は邪馬台国の時代の話ですが、徐福さんはその400年前?

あれ?大物主さんの時にはユダヤの人がとっくに入ってたって事ですよね?

待てよ、私が描いたユダヤ人顏のおーくにさんって、どうなるんですかね?

この記事を書きながら今気がついたんで、どうしたら良いのか分からないのですが。

あっれーーー!(@_@)

困ったな、どうするの?コレ。

スーさん!とりあえずスルーしちゃっても良いのですかね?

混乱したところで、また明日です!

とりあえず逃げるが勝ち!(`・ω・´)


(´ノ・ω・`)ノ・‥…━━━★゚+.・‥…━━━★゚+.・‥…━━━★゚+


それでは本日も良い一日を〜。

スーさん 「時と場合に於いては負ける事が勝ちとなる事がある。形勢を見極める様にね」

musica 「はい(`・ω・´) 」

ス 「形勢を見極めると言うのは、ただの精神的な逃げではないか見極める事も含めるぞ」



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by garoumusica | 2016-03-27 05:03 | 古代氏族 | Comments(0)
本日はミムロ山と大物主の関係について纏めていきたいと思います。




と言ってもまぁ、本に全部書いてある事なんですけどね→大和誕生と神々―三輪山のむかしばなし

さてさて、三輪山は古代ではミムロ山と呼ばれており、現在の様に禁足地ではなかったそうなのです。

禁足地などという制度(?)は、土地に対して所有意識を持った弥生人・大陸からの渡来人の制度で、縄文人にはその様な考えが無かったそうです。

それは何故かと言うと、縄文人の食料が木の実だとか魚だとか獣だったから。

季節が移り変わり食料が取れなくなると、その度に別の場所に移動する生活だったのだそうです。

自由ですねぇ・・・。

だから土地を所有するという習慣が無かったのだそうです。



しかし弥生人が渡来し稲作が始まると、その土地に定着する様になります。

安定して食料の確保が出来る様になったからです。

ですが、それでもまだ土地の所有などという考えは生まれなかった様に思われます。

アレです、以前稲荷神社について調べた時に出てきた、

「春に山の神が里に降りてきて田の神となり、秋に収穫が終ると山に帰る」伊奈利と稲荷、狐と空海、そして秦氏 その2。

という考えからも分かる様に、神様でさえ土地を所有していませんでしたもんねぇ・・・。



さてさて、大物主さん。

この方の部族はどうもミムロ山に暮らしていた様なのです。

なんでまた山に!?と思うところですが、この場所で管理運営をしていたそうです。

何を管理していたのかと言うと、宇陀・都祁(つげ)で産出される辰砂(しんしゃ)=水銀。→google maps 宇陀市


これも以前記事にしましたが、奈良の大仏建立で発生した水銀中毒の原因となったのが、辰砂でした。→伊奈利と(略)、更に荷田氏。本日は秦氏と水銀中毒。

で、何を運営していたのかと言うと、纒向市場です。→google maps 纏向遺跡

私はgoogle earthで見ていますけれども、これ面白いですねぇ・・・。

前方後円墳が可愛いです。



ところでこの辰砂・水銀、これを大陸の人達はわざわざこの日本まで購入しに来ていたのだそうです。

辰砂・水銀はもちろん大陸でも採れる訳です。

それなのに何故この島国まで大きな危険の伴う海路でわざわざ買い付けに来ていたのか。

それは不老不死のお薬だと信じられていたから。

そしてその最上級は蓬莱山で採れたもの、と言われていたからなのです。


明日も続きます。

ちょっと短いのはパソコンの不調のせいです・・・。


・。.:*(・ω・)・。.:*(・u・)・。.:*(・v・)・。.:*


それでは本日も良い一日を~。

スーさん 「『一月(いちげつ)往(い)ぬる 二月(にげつ)逃げる 三月(さんげつ)去る』という言葉を、先月の同じ日に言ったが、一日一日を大切に生きる事が出来たかね?」

musica 「あっという間に思えたから、そんなに大切にしていなかったのかな・・・」

ス 「そう思うなら今すぐ変えなさい」



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by garoumusica | 2016-03-26 04:59 | 古代氏族 | Comments(0)

目に見えない厳ついおっさんと絵描きの会話。それから大変申し訳ありませんが、本サイト内の画像、写真の無断転載・転用を禁止させていただいております。


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