カテゴリ:古代氏族( 51 )

古代道路編。

本日は古代の道路についてです。



日本の道路に関する初めの記述は、3世紀末に書かれた「魏志倭人伝」なのだそうです。

邪馬台国の都へと続く道について「土地は山険しく森林深く道路は禽鹿(きんろく)の小径のごとし。草木盛栄し、行く前を見ず」と書いています。

魏の使者には日本の道が獣道にしか見えなかったようですねぇ。

それから「日本書紀」にも「兵が二列縦隊では進めない」との記述があります。

どちらの記述も古代の道は残念だったのだなぁ、という事が良く分かります。。。



時は流れまして、こちらは律令時代(大化の改新以降の7世紀後半から10世紀頃まで)に整備された道です。

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現在でも使われている名前がちらほらですね!

これらの道をあわせて「七道」と呼ばれています。

この七道のうちの「北陸道」「東海道」「山陽道」「山陰道の中の丹波」は3世紀末にはあったのではないかとされています。

それは崇神天皇が四道将軍を各地に派遣したところから推測されるそうです。(四道将軍に関してはこちら→古代氏族 古代出雲2大勢力編 その2 出雲古禰。

で、道は大路・中路・小路と3ランクに分かれており、大路は山陽道のみ、中路は東海道と東山道、その他は小路とされたそうです。

大路も太宰府から先は小路とされたそうです。

都から太宰府に行く道のみが大路なので、太宰府までの道のりを重要視していたのがこの事から分かるそうですよ。

何があったのでしょうねぇ。

大陸へと出航する港が太宰府あたりにあったとかですかね?



道沿いには駅家(今でいうところの駅みたいなもの)が置かれ、大路の駅家には駅使と呼ばれる人たちが使う駅馬が20頭、中路の駅家には10頭、小路の駅家には5頭が置かれていたという事です。

ちなみに京都までの日数は徒歩でこんな感じだったそうです。

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運脚とは奈良・平安時代に租税である庸・調を徒歩で都まで運んだ人夫の事で、
奴隷みたいなものだったそうです・・・(´・_・`)



なんだか図を書いていたら時間切れになってしまったので、続きはまた明日に。

それでは良い位置に血を←すごい変換ですね・・・(゚o゚;;

これは保存版です(`・ω・´)+



では改めて、良い一日を~。

何だったんだ、あの変換は・・・。

思わず噴いて鼻水出ました。







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by garoumusica | 2015-10-28 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
島根県立古代出雲歴史博物館、今日で最後です。




・古墳時代の勾玉・切子玉・ガラス玉。

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・前漢時代の青銅製の帯飾り。

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前漢は紀元前206年~8年に存在した中国の王朝です。

こんなに昔からおしゃれ道具ってあったのですねぇ。



・出雲大社御本殿の天井絵八雲之図。

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・江戸時代に描かれた出雲国大社之図。

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これは3枚に分けて展示してあったものを繋げたので、歪みがありますがドンマイです。



・室町・戦国時代にヨーロッパで作られたテイセラ日本図。

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・小泉八雲の雪女(多分)。

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・アマテラねぇちゃんの岩戸隠れ。

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そして!

スーさんと稲ちゃん!

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ワイルドどすなぁ・・・。



島根県立古代出雲歴史博物館、まだまだ沢山ありますが今回はこんな感じです。

この博物館は本当におススメです(`・ω・´)+。

出雲大社のすぐ横ですので、是非行ってみてください。

JAFの会員だと入場料が割引ですよ!

今こちらで開催している企画展「百八十神坐す出雲-古代社会を支えた神祭り-」の講座がとても面白そうで・・・。

第1回目は既に終了していますが「古代国家はなぜ神社をつくったのか?~古代神社の本質にせまる~ 」という内容でとても魅力的。

行きたかったなぁ。

2回目は今日で「神々の声・神々への声を聴く~自然界に神を感じていた古代びと~ 」

13時半からだそうです。

要予約です。

3回目は「祭祀遺跡から古代の出雲、杵築大社成立を考える~神と社の考古学~ 」、これも面白そう・・・。

無料って言うのが良いですね!



musica 「神迎祭、何で行っちゃダメなんですか?」

スーさん 「出雲は日本海側だ。君が思う以上に冷える。君の身体は冷えやすいから駄目だ」

m 「えー」

ス 「神迎祭は夜分だ。日本海側の夜間は冷える。海辺は特にだぞ。神事は夜分に稲佐の浜で行うのだからもってのほかだ」

m 「・・・(´・ω・`)」






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by garoumusica | 2015-10-25 05:00 | 古代氏族 | Comments(1)
本日も島根県立古代出雲歴史博物館の続きです。


それにしても写真撮り放題ってすごいですよね!

太っ腹です。



何かのディスク。

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天文図?羅針盤?

四隅の出っ張りに糸を通して方角を合わせて使う、とかそういう感じだったと思うのですが。。。

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鏡。

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そして!

神原神社古墳から出土した、卑弥呼の三角縁神獣鏡!

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アップ!

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魏から邪馬台国の卑弥呼に授けられた100枚の鏡のうちの1枚だそうです。

220~265年に中国の華北を支配した王朝の品。

1800年前のものをこうして目にする事が出来るってすごいですよね!



古墳時代の剣。

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以前描いた南方先生の剣はこのタイプです。

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剣の持ち手。

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細やかな装飾がみられます。

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鞘と剣の本物とレプリカ。

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あの剣のきらめきを表現したかったのですが、難しかったです・・・。



明日も続きます。




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by garoumusica | 2015-10-24 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
連日の出雲の記事のおかげで出雲へ行きたくなりました・・・。

なので去年出雲へ行った時の画像を見ていたのですが、その中に島根県立古代出雲歴史博物館のものがありまして。

昨年、本館ブログに出雲旅の画像を載せた時はこの博物館の画像特集をしなかったので、ちょっと別館で取り上げてみる事にしました。

調度出雲の歴史を学んでいますからね!

きっと面白いと思います(`・ω・´)+。

ついでに本館ブログの画像集のリンクも。





この画像の左下にちょこっと見えている建物です。

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雲が生まれている様子が面白くて撮ったものです。

こちらの博物館には常設展示で様々な出土品が展示してあります。

入ってすぐの所に出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱。

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古代の出雲大社のレプリカ。

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国宝・加茂岩倉遺跡出土銅鐸。

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アップ。

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ズラー。

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国宝とでかでかと書いてあるのが良いです。



これまた国宝の荒神谷遺跡出土青銅器。

上側がレプリカで下側が出土品。

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ズラー。

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これはレプリカ(多分)。

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これもレプリカ?

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なんだか縞々がエジプトっぽいです。

ファラオのマスクの顔の横の布。



ちなみにどちらの遺跡も出雲郡にあります。

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出雲郡と書いてあるところの「郡」の横辺りです(かなりおおざっぱ)。



明日は卑弥呼の鏡などを。





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by garoumusica | 2015-10-23 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
出雲国造家由来の神社の続きで、本日は熊野大社です。



出雲国一之宮熊野大社は松江市八雲町熊野にあります。

祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)で、ひと言で言えばスーさんの事です。

そしてそのスーさんがこの地に火を伝えたといういわれから、火の発祥の神社として知られ、「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれています。

創建されたのは神代と言われ、『日本書紀』に「出雲国造をして厳神の宮を作らしむ」との記載があります。

そしてこの熊野大社を代々奉斎してきたのが、出雲国造家です。



千家さんの書かれた本には、スーさんの別名、櫛御気野命(くしみけぬのみこと)の中にある「みけ」という言葉、これは「みけ=御饌(食事の事)」という意味で、熊野大社のスーさんは「穀物の神」なのだとあります。

そして熊野という名にある「くま」は「かみ」という言葉が転じたものだそうで、熊野大社のある熊野という地名にも神が宿っているそうです。

出雲国造の祖神・天穂日命、この神も名前の「ほひ」が「穂霊」の意味を持つとして、稲穂の神として知られています。

よって、出雲国造が穀霊を身に帯びる天穂日命より出で、穀神として高い権威を持つ熊野の神を奉斎してきたのも自然な事なのだそうです。

そうそう昨日記事にした神魂神社は、冬になると雪深くなる熊野大社の遥拝所としての役割もあったようです。→古代氏族 出雲国造家 神魂神社編。



が、次のような説もあります。

出雲に熊野大社を持ち込んだのは紀伊の海人ではないか・・・?

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大和の下に紀伊を追加しました。


この説を唱えるのは『出雲大社の暗号』の関裕二さん。

それは何故かといいますと、『延喜式』の中に出雲と紀伊双方に同じ名の神社が存在するが、熊野大社を除いたすべてで紀伊の神社の方が出雲よりも格上であるからとあります。

そして「熊野」の名を持つ式内社は各地にあるが、この広がりは紀伊の海人の活動範囲と重なるから、としています。

紀伊や熊野の海人達は、4世紀末から6世紀にかけて積極的に大陸と交流していたのだそうです。

よって当然出雲との交流もあっただろうし出雲への移住もあり、それにより熊野の神が伝わったのではないかという事だそうです。

それにしても古墳時代って思っていたよりもずっと発展していたのだろうな~って、最近つくづく思います。

服装とかイメージだと生成りの粗末な服って感じでしたけど、もっと大陸寄りのおしゃれ?な服装だったのかもって思っちゃいます。



熊野大社の位置はこちらです。

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熊野大社が現在ある場所へは明治時代に移されました。

それ以前は意宇川に添って500メートル上流にあり、そこを「上の宮」、今の場所を「下の宮」と呼んでいたのだそうです。

『雲陽誌』という島根県が20世紀初頭に編纂した本には、「速玉・事解男・伊弉冉三神を上の社、天照大神・素盞嗚尊・五男三女を下の社」とあり、上の宮を熊野三社、下の宮を伊勢宮と呼んでいたそうです。

そして中世以前、上の宮は天狗山(昔は熊野山と呼ばれていた)の頂上に祀られていたそうです。

ここで地図。



赤が現在の熊野大社、黄色が旧上の宮、水色が初代熊野大社(?)です。

あぁ~、こうして記事にしていると出雲へ行きたくなりましたー・・・。

前回はおっさんの指示で弾丸だったから、今度はゆっくり行きたいです。

そろそろ神在祭ですし・・・、ねぇ?→チラッ

速攻で却下されました(´・ω・`)

しじみ飯・・・。





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by garoumusica | 2015-10-22 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
本日は古代出雲の勢力争いのその後などを書きたかったのですが、私の知識不足の為上手く記事をまとめられなかったので、出雲国造家ゆかりの神社について書いていきたいと思います。



本日のメインテキストはこちら!

千家尊統さんの書かれた出雲大社です。

千家尊統さんは名字でお気づきの通り、第82代の出雲国造を務められた方です。

その方が出雲の神話や歴史、出雲大社の社殿や祭事等をまとめられたのがこの本。

昭和43年の5月に出版されました。

そしてお亡くなりになられたのがこの年の11月。

人生の集大成として綴られたのかもしれませんねぇ・・・。



はい、出雲国造家ゆかりの神社について書いていきます。

今回取り上げるのは松江市大庭町にある神魂(かもす)神社です。



神魂神社は意宇六社のひとつとされています。

意宇六社とは、熊野大社(松江市八雲町)、真名井神社(松江市山代町)、揖夜神社(松江市東出雲町)、六所神社(松江市大草町)、八重垣神社(松江市佐草町)、そして神魂神社(松江市大庭町)を指します。

これらはみな意宇郡にあります。

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神魂神社の社伝には、天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に降りてきた後に創建したとあり、伊弉冊大神(いざなみ)と伊弉諾大神(いざなぎ)を主祭神としています。

ですが千家さんは、この祭神は後世の思考のいたすところ、と言っています。

それは伊弉冊大神を葬ったとされる比婆山を飯梨・母理の山地に設定したから、との事です。

まぁ、なんでこの二人が祭神なのかよく分からない、という事なのでしょう。。。

飯梨・母理に関してはこちらのサイトがおススメです。→Saninサイズ 



ところで今回この神社を取り上げた理由は、この神魂神社は出雲国造家の屋敷があった場所にあり、元々は邸内社(プライベート神社)だったからです。

この神社は出雲国風土記にも延喜式の神社帳にも記載されていないらしいのですが、その理由もプライベート神社だったからだと千家尊統さんは述べています。

ですが、この神社の名前を冠した神が出雲国風土記に載っている、と言うのは中見利夫さん。

彼の著書出雲大社と千家氏の秘密の中で、神魂神社の名を冠した神、それは「神魂命(かみむすびのみこと)」であり、古事記における「神産巣日神(かみぬすびのかみ)」であり、日本書紀における「神皇産霊尊(かむみむすびのみこと)」であるとしています。

神産巣日神といえば、天地開闢の時に天御中主神(あめのみなかのぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の次に高天原に出現した、造化の三神の一人とされています。

造化の三神は性別の無い神様とされていますが、この方だけは女神と言われています。

この神様のエピソードとしましては、おーくにさんが兄神らによって殺された時に、おーくにさんのお母さんが神産巣日神にお願いし、神産巣日神に遣わされた蚶貝姫と蛤貝姫の治療によっておーくにさんは生き返りました。

また、おーくにさんと一緒に国造りをした少彦名神は彼女の子供にあたります。

中見さんの本には名前が一緒だから的な事が書いてあるだけで、その具体的な検証が載っていないのが残念ですが、確かにおーくにさんに縁のある神様ですよね。



神魂神社に関する解説はこちらでどうぞ。→Wikipedia

神魂神社に関する画像はこちらのサイトがおススメです。→しまね発 ふるさと通販ショップ 神魂神社って・・・

意宇六社めぐりに関するPDFはこちら(すごく良いです。ぜひパソコンで見てください)→意宇六社めぐりガイド(PDF)




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by garoumusica | 2015-10-21 05:00 | 古代氏族 | Comments(4)
ほんのりお久し振りの古代氏族編です。

さっそく前回の記事のまとめ。

古禰死す、東部黙認。

もっと詳しく思い出したいという方はこちら↓。




さてさて、出雲古禰(いずものふるね)が弟の飯入根(いいいりね)を騙し討ちにしてしまった事を、朝廷にチクった古禰の弟の甘美韓日狭(うましからひさ)とその子・鸕濡渟(うかずくぬ)親子。

その子・鸕濡渟が「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)という物部氏の史書の中の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」という巻に出てきます。

その内容はというと、「第10代崇神天皇のとき、天穂日命(あめのほひのみこと)の11世の孫である宇賀都久怒(うかつくぬ)を国造に定めた」というものです。

宇賀都久怒(うかつくぬ)=鸕濡渟(うかずくぬ)ですので、先代旧事本紀に従えば初代出雲国造は出雲古禰の事を朝廷にチクった弟の子、という事になります。

ですが、神話的には天穂日命が初代出雲国造ですし、その流れで言えば出雲古禰が11代出雲国造で12代が鸕濡渟と言われています。

まぁ、真相は闇の中ですねぇ・・・。

これが大体2~4世紀頃のお話だそうです。(←研究者によって違ってきます)



ところで、東部勢力の淤宇宿禰(おうのすくね)さん。

この方は第16代の出雲国造と言われています。

またこの図。

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この人は日本書紀に出てこないのか?と言うと、ちゃんと出てきます。

仁徳天皇即位前紀に、倭(奈良県)の屯田司(みたのつかさ)の任務に就いていたそうです。

屯田司というのは天皇の直轄の領地の田の管理・経営する人の事で、なんでまた出雲国造が奈良の田んぼを管理しているのかと言う素朴な疑問は置いておきまして、日本書紀にどのようなエピソードが載っていたかと言うと。。。

額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ=応神天皇皇子、仁徳天皇の兄)に嫌がらせを受ける話です・・・。

登場人物が多いので、人物名に色を付けました。



ある日額田大中彦皇子淤宇宿禰が管轄していた倭の屯田(ミタ=天皇の田)と屯倉(ミヤケ=天皇の直轄領)を、自分の管轄にしようとイチャモンをつけます。

「この屯田は元々は山守(やまもり:応神天皇が定めた山守部〔やまもりべ〕の事か、山川林野を掌る大山守命〔おおやまもりのみこと〕の事)の土地なので、私が治める事にする(`・ω・´)+」

などと言い始めます。

いきなりの事に困った宿禰は皇太子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子に相談します。

すると皇子は、

大鷦鷯尊(おおさざきのみこと=仁徳天皇)に言ってくれる?」

と言い、宿禰大鷦鷯尊に相談します。

で、大鷦鷯尊は倭直氏(やまとのあたいうじ)の祖先の麻呂(まろ)に、

「倭の屯田が元々は山守の土地ってどういう事?」

と聞きます。

すると麻呂は、

「私は知りませんが、私の弟の吾子籠(あごこ)だけが知ってます」

と答えます。

この時吾子籠は韓国に派遣されていて、まだ日本へは帰って来ていません。

なので大鷦鷯尊宿禰に、

「お前は自ら韓国に行き、吾子籠を呼び戻せ。昼も夜も無く速やかに行けよ?」

と言い放ちます。

で、宿禰は韓国に行き、すぐに吾子籠を連れて帰り、倭の屯田について問いました。

そして吾子籠、おおいに語ります。

「垂仁天皇の時代に、皇太子の大足彦命(後の景行天皇)が倭の屯田を定められましたが、その時に

『全ての倭の屯田は常に御宇帝皇(あめのしたしらすすめらみこと=初代天皇)の屯田である。それが帝皇(みかど=天皇)の子といえども、御宇(あめのしたしらす=初代天皇)でなければ管理する事は出来ない』

と言われました。

だからこの土地が山守の土地という事はありません」

と言う訳で、額田大中彦皇子淤宇宿禰の管理する倭の屯田と屯倉を手にする事は出来ませんでしたとさ。

おしまい。




なんでしょうね?この嫌がらせとたらい回しっぷりは・・・( ;´Д`)

それに何故こんなしょうもない話を外国向けの史書にわざわざ載せたのか・・・。

天皇家の恥を晒しているようなものですよねぇ。

その感覚が分からないです。

アレですかね、古くから大陸と交易のあった出雲をこんな風に下っ端扱いしてるんだぜ?俺って凄いだろう?という権力アピール?

いずれにせよ、西部も東部もなんだかんだで朝廷から嫌がらせを受けている出雲でした。





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by garoumusica | 2015-10-20 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
本日も昨日の記事の続きです。




いきなりですが、これは古代日本の豪族の勢力地図です。

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古代って言っても2~3世紀頃なんですけどね。

古代って言うと、古代エジプト文明とか古代ギリシャ文明なんかを思い出すのですが、これらは紀元前3000年とかですからね、日本のこの程度の年代を古代などと言ってはいけない気がするのです。

紛らわしい。。。

それは良いとしまして、古代日本にはこんな感じ↑の豪族達が地方を治めていました。



で、出雲に話を戻します。

また昨日の図です。

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出雲西部を支配していた出雲古禰(いずものふるね)さん。

彼は日本書紀の崇神六十年条に出てきます。

内容はこんな感じです。



『出雲には高天原から伝えられた神宝がありました。

これを崇神天皇が見てみたいから献上して☆と要求をしました。

ですが古禰は筑紫に出掛けていて不在だった為、彼の弟達が勝手に宝を差し出してしまいます。

後日出雲に戻った古禰はどうして自分の帰りを待たなかったのだと大いに怒りまして、弟の飯入根(いいいりね)を騙し討ちにしてしまいます。

古禰の弟の甘美韓日狭(うましからひさ)とその子・鸕濡渟(うかずくぬ)は朝廷に参り詳しく報告し、朝廷は吉備津彦(きびつひこのみこと)と武渟河別(たけぬなかわわけ)を遣わして出雲古禰を殺させました』


古禰死す・・・!


なんと!弟の告げ口であっさりと殺されてしまいました。

元はと言えば無茶言った朝廷と勝手な事した弟のせいなのにねぇ・・・。

吉備津彦と武渟河別は四道将軍(よつのみちのいくさのきみ←なんだかカッコいい響きです)と呼ばれ、四道将軍とは日本書紀に登場する皇族(王族)の四大将軍の事です。

四道将軍は大彦(おおびこ)、武渟河別、吉備津彦、丹波道主(たんばみちぬし)の4人を指します。

なんでも日本書紀では、崇神天皇10年(紀元前88年頃)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に朝廷に服従させる為に派遣されたらしいですよ。



で、この中の吉備津彦さんを吉備の象徴として、武渟河別さんを大和の象徴として捉える考え方があるそうです。

もう一度勢力図。

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出雲のすぐ近くの吉備とちょっと離れた大和。

この勢力に服従させられたという史実をこの様な形で表したのではないか、という事です。

て言うか、古禰さん以外の兄弟は朝廷側の要求にあっさりと応じている上、飯入根が殺されたよって朝廷に告げ口しているところをみると、古禰さん以外の兄弟は既に朝廷側についている感じがしますよねぇ・・・。



ところで東部勢力の淤宇宿禰(おうのすくね)さん、西部の古禰さんが粛清された時どうしていたのかと言うと、何もしていません。

日本書紀上でなくリアルな世界でも、出雲西部が吉備と大和に攻撃された時に西部側に加担したとかそういう痕跡が無いそうです。

なので東部側には朝廷側からあらかじめ話をつけてあったのではないか、という考察があるのだそうです。

恐ろしいわ~、古代の豪族・・・。



このシリーズを書くきっかけとなった漫画『八雲立つ』。

その時のブログはこちら→『八雲立つ』に学ぶ その1。

その中でスサノオさんが『次こそ勝ってやる。殺し尽くし滅ぼし尽くしてやるぞ』と王朝を呪っていますが、実際の歴史の中でそれを言うとしたらこの古禰さんかもしれないですねぇ・・・。



とりあえず今日はここまでで、続きはお絵かき曜日が終わった後の来週の火曜日にする事にします。

明日からはいつも通りのおっさんsとの日常です。





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by garoumusica | 2015-10-15 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
本日は昨日の記事の続きで、古代出雲の2大勢力について書いていきます。



古代出雲は北海(きたつうみ・日本海の事)の中核に位置した為、大陸や九州、北陸地方との交流がありました。

そして古代出雲には東西に分かれた2大勢力があったとされています。

こんな感じです。

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私がんばった↑

地図左の黄色が出雲西部勢力、右のピンク色が出雲東部勢力です。



西部の神門郡に位置する神原神社古墳からは景初三(239)年と銘が入った三角縁神獣鏡が出土しています。

これは魏(220~265年に中国の華北を支配した王朝)から邪馬台国の卑弥呼に授けられた100枚の鏡のうちの1枚です。

また、出雲郡に位置する杵築大社(出雲大社)の摂社である命主社(いのちぬしのやしろ)からは、銅戈(どうか)と硬玉製勾玉が出土しています。

銅戈は北部九州産、硬玉製勾玉は新潟県糸魚川産の可能性が高く、この時代に北部九州、北陸と交流があったことを物語っています。

他にも出雲郡に属していながら何故か出雲東部勢力の墳墓とされている西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)の3号墓には、地元出雲産・吉備産・北陸産の土器が出土しており、他の地域の首長と積極的に交流していた様子がうかがえます。




さてさて、出雲西部を支配していた豪族が「出雲古禰(いずものふるね)」

出雲東部を支配していた豪族が淤宇宿禰(おうのすくね)」です。

昨日の図をもう一度。

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中央下の部分の記述がこの二人に関するものです。

両方とも出雲国造家の祖となっていますが、これはどうやらもともと同族だったとみられているからのようです。

そしてこれらの勢力がまたうまく付き合っていたようです。

立地環境の違いがその性格に大きな違いをもたらしたそうで、日本海に面する出雲西部勢力は古くから大陸や九州、北陸地方との交流が盛んで常に意識が外に向いています。

西部にある杵築大社のおーくにさんも葦原中国の国造りにみられるように、積極的な面を持っています。

そして東部は内陸に位置していた為か、西部ほどの積極性を持って外部との交流はみられなかったようです。

西部とは違い土地が肥沃だったそうですので、自分達の土地である程度内需を賄えたからとかですかね?

そのせいか東部に位置する熊野大社のスーさんは、出雲国風土記では農耕の神として描かれており、穏やかな面が前面に押し出されています。

西部と東部それぞれの性質が、それぞれの地に位置する大社の神の性質と重なる所が面白いですよね。

この2大勢力の性質の違いからか、西部と東部はなかなかうまく付き合っていたようです。



明日も続きです。

本日の参考文献はこちら。


上の説明だけじゃ足りないよ~って方は、これらを読まれたら面白いと思いますよ!

最近古代出雲が分かるようになってきたので、出雲国風土記を読むのが楽しいです(`・ω・´)←スーさんの思うツボ( ̄ー ̄)





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by garoumusica | 2015-10-14 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
※本日は出来ればパソコンで見てください。画像の文字を読む必要があります。



お久し振りの古代氏族シリーズです。

これに関して書こうと思ったらいつもの倍以上の時間が掛かるので、絵を描かない月火水に記事を書こうかと思います。

前回はこちら。




本日は出雲国造家についてです。

出雲国造家について本を読みながら取ったメモがこちらなのですが・・・。

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中央の出雲国造家と言う文字を拠点に、四方へ広がるようにキーワードが書いてあります。

キーワードを線で結んであるので、それを追っていただければ・・・。

これを文字にするのが大変なので、今日はこれで勘弁です・・・。



メモをしていて思ったのですが、昨年ご結婚をされた高円宮家の次女典子さまと出雲大社権宮司の千家国麿さん。

この時私は出雲を滅ぼした側と滅ぼされた側の結婚か~、と思ったものですが、よく考えたら千家さん一族は天津神の子孫で天皇家と親戚なんですね。

大きな間違いでした。

出雲大社の宮司さんだからおーくにさん側の人だとばかり思っていまして。

どうりでブログにこの事に関して書かなかった訳だ、と納得をしてしまいました。

教えてくれたらいいのになぁとチラリ思いましたが、自分で学び気付く事が大切だ、と言われました・・・。



このメモは出雲国造家に関するものでしたが、続きをどうしたら良いのですか?スーさん・・・。


文字にするんですか?

超迷走してます。。。





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by garoumusica | 2015-10-13 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)

目に見えない厳ついおっさんと絵描きの会話。それから大変申し訳ありませんが、本サイト内の画像、写真の無断転載・転用を禁止させていただいております。


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