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はい、という訳で昨日の宿題『出雲国造神賀詞』について、昨日のまとめを基に考え直していきたいと思います。




時は716年、平城京において奏上された『出雲国造神賀詞』。

その内容は、まずは天皇に対する挨拶とほんのり出雲の自慢と、これだけ禊ぎして来たぜ、みたいな感じです。

次に古事記に書かれた国譲りの場面での自分達の祖神に対する誤り(?)を訂正。

そして天皇の健やかなる毎日をお祈り。

で、気になった内容と言えばこれでした。


『己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき』


例のアレです。

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都は既に平城京であるにもかかわらず、白梼原宮(かしはらのみや)、もしくは藤原京を出雲の神々は護ってるぜ!的な内容だったやつです。→古代(略)その6 出雲国造神賀詞に秘められたモノ?

それを受けて私は「遷都した後の事は、一切関知致しません」って、わざわざ宣言している様にも聞こえる気がする、と書いたのです。



藤原京は『日本書紀』では新益京(あらましのみやこ)、万葉集ではこの京が藤原という地名の場所にあった事から藤原宮と呼ばれていたのだとか。

なので決して当時猛威?を振るっていた藤原不比等由来ではありません。

710年の平城京遷都までのわずか16年間(持統・文武・元明三代)使われていただけの都でした。

なんだか一説によると下水事情が良くなかったそうで、臭かったらしいです、都が。

くっさいし、不衛生で疫病の流行も懸念されたので、藤原不比等が猛プッシュして平城京に遷都したそうです。

そして『出雲国造神賀詞』の奏上が716年。

遷都していても、出雲国造は相変わらず白梼原宮や藤原京の地を護っていますと奏上しています。

改めてこれは一体どういう事なのか?と考えていたら、この様な資料と出逢いました。


お高くて手が出せない物部氏の研究という本を書かれている歴史学者さんの論文です。

この小考によりますと、この神賀詞の内容が藤原京の時代に考えられたのではないか、とありました。

という事は・・・、どういう事だ?(´・ω・`)

遷都したのに藤原京用の内容のまま平城京で奏上しちゃったって事?

なんだかそれも不思議な感じがしますね。

あ、でも、平城京で奏上した時の天皇は元明天皇(げんめいてんのう)で、遷都前の707年に藤原京で即位した天皇だから、そこまでイヤミでもなかったのかもしれません。

それに実質的に政権を握っていた藤原不比等の藤原と藤原宮をかけて、出雲は藤原氏をお護りしていますよ☆的なおべっかともとれなくもない・・・。

おべっかと神話の訂正をする『出雲国造神賀詞』。

出雲国造が畿内の大物主一族に対してどのように思っていたのかが分かれば良いのですが・・・。



さてさてもうひとつ追加です。

出雲の国名と桜井の出雲の地名に関する事です。

桜井の出雲の地名に関して、この様な考え方を思いつきました。

『くも』という名称は天孫族が原住民に対して付けた蔑称、『土蜘蛛』に通じるのではないかと思ったのです。

ミムロ山に居住していた原住民であった大物主一族。

『蜘蛛が出没する』=『出づ蜘蛛』→『出蜘蛛』→『出雲』

ありそう・・・。

ありそうなのですが、おっさんが

「磯城・十市の前の名称が出雲だとしたら、蔑称であるはずの土蜘蛛を原住民族が自ら名乗っていた事になるぞ(笑)」

って・・・。

現在に残る桜井市の出雲だけだったら、これでも大丈夫な気がするのです。

三輪山に隣接する土地柄を考えると、

「ミムロ山に居住していた原住民族・大物主一族の生き残り=蜘蛛が出没する地」

として、天孫側に名付けられた地名でも全然おかしくないのです。

が、問題は磯城・十市。。。



これを解く鍵が島根の出雲の由来だと思うのです。

それの手掛かりが、また『出雲国風土記』・・・。

これも気になる事が一杯残っているのです。

何故記載が意宇郡からなのか。

何故国名と同じ出雲郡からではないのか。

と思って『出雲国風土記』を読み直していたら、見落とし部分を発見しました。

なんと!意宇郡は杵築大社(出雲大社)のある出雲郡も含まれていた、という説があるそうなのです!

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という事は、島根の出雲という地名は古代においては無かった可能性もある・・・?


明日に続きます。


。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。


それでは本日もよい一日を~。

スーさん 「年度末だ。取りこぼしの無いよう心して過ごしなさい」


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by garoumusica | 2016-03-31 05:12 | 古代氏族 | Comments(0)
本日はどういう内容を書くのかなぁと思っていたら「纏めろ」との事なので、まぁとりあえず纏めていこうと思います。




今まで調べてきた結果私が思うのは、

・出雲の国譲り神話は畿内が舞台

・大物主≠大国主≠出雲国風土記のオオナムジ

だという事です。



出雲の地に何らかの王権の様なものはあったけれども畿内に君臨する事は無く、勢力範囲は広くても四隅突出型墳墓の分布地域が限界。→古代(略)その10 四隅突出型墳丘墓と遠賀川式土器。

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とは言うものの、ネットで公開されている「国際シンポジウム『古代東アジアにおける都市の成立』」の報告資料( 日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から)を拝見すると、纏向遺跡では様々な地域の土器が発掘されているそうなのです。

その約半数が東海産、17%が山陰・北陸産、10%が河内産、7%が吉備産だとか。

出雲は山陰ですので、北陸地方と合わせた数ですが17%もある訳ですから、出雲の人々が畿内に進出していた事は確かです。

なので出雲出身者が集った出雲邑があってもおかしくはないと思いますが、邪馬台国の中心地だったと思われる磯城・十市に、少数の他国の人達が占拠していたっていうのは、なんだか無さそうな気がします。

そして磯城・十市の地が本当に出雲と呼ばれていたのだとしたら、現在出雲と呼ばれている場所が古代においても出雲と呼ばれていたのかは疑問です。

出雲の国譲り神話をでっち上げた時に前ヤマト王権を消し去る為に、大陸との交易で独自の発展を遂げていた現出雲の国を「出雲」と名付けた気がします。←自信が無い。

ですがそうすると、出雲国風土記に出て来ない事代主(『記紀』では弟磯城)と建御名方(兄磯城)もスッキリする気がするのです。

特に建御名方の諏訪への逃亡も、畿内からだったら距離的にも納得出来るのです。



で、三輪山に祀られている大物主=蛇とは何なのか・・・。

私は去年の日向旅の時におーくにさんから白蛇を渡されて大神神社へ招待されたので、やっぱりそこが気になります。

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すむちゃんです。


大物主さん自体は神武東遷の時に殺されて大神神社に祀られた(封印された?)のだと思うのです。

大物主さんだけでなく、事代主さんとか、その他の子も。

そして神武の宮を護る様に配置された。→古代(略)長髄彦と神武東遷編 その5 出雲国造神賀詞。

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じゃあ大物主=蛇は?というと、元々ミムロ山にそういう信仰があった為だと思われます。→スーさんに問う!「習合」ってなんですか?

それに殺された大物主さんを祀ったものと習合した結果、大物主=蛇となったのだと思うのです。

これは民衆が勝手に習合したのか、『記紀』を作った時に意図的に習合したのかは分かりません。

ただ、それだけ蛇信仰がこの地に根付いていたという事だけは分かります。



で、この蛇の正体は龍型シリウス人らしいです。

身体の無い宇宙人らしいですよ。

スピ系ブログらしい展開になりましたが、私はこういうのはさっぱりなんでこれ以上は突っ込みませんが。

古代の縄文人は龍という概念が無かった為に、龍型シリウス人を蛇として認識したみたいです。

ほんと、こういうのさっぱりなんで分からないんですけど、おっさんが書けって言うから・・・。



まぁ、こういう感じで纏めてみました。

あ!出雲国造神賀詞について触れるの忘れてるって!

あー・・・、もう時間が無いから、また明日(`・ω・´)+


(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)人(*・c_,・`*)


それでは本日も良い一日を~。

おーくにさん 「分からない事を無理矢理に理解しようとせずとも良いと思うがね」

musica 「そうですねぇ、時が解決してくれることもありますし・・・。だけどおっさんが・・・」

スーさん 「挑戦するという事も大切だ。人は成長をする為に生れてくるのだから」

m 「・・・」


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by garoumusica | 2016-03-30 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)
前回は徐福さんがどうのこうのとか、ユダヤの人がどうのこうのとか、ちょっとめんどい感じで終わりましたが、とりあえずは初めに書こうとしていた事を記事にしていこうと思います。

日本名物「先送り」です。




前回は、なんで大陸の人がわざわざ日本に辰砂・水銀を購入しに来ていたのか、という感じの内容でした。

本日は大物主さんとミムロ山(三輪山)と纒向市場です。

大物主さん一族が暮らしてたミムロ山は、宇陀で採れた辰砂・水銀を纒向市場へと運ぶ運搬路でした。

もちろん運搬路は何種類もあったそうなのですが、長谷山からミムロ山の山頂に至る尾根道が最も最短で歩きやすく、何より安全だったのだとか。

以前、桜井市出雲のgoogle mapsをリンクしたのですが、その時に地形図で見ると三輪山の山頂と出雲の地区の最も高い位置が一緒、というような事を書いたのです。→google maps 桜井市出雲

で、なんでそれをわざわざ書いたのかというと、古代に宇陀から辰砂を運んで来た人達が通る道に、出雲の地名があり、そしてその場所を管理し住んでいたのが大物主の一族だったからです。

だから何?と言われたら困るのですが、山の麓部分だけを出雲と呼んでいるのではなくて、きちんと山頂部分をも含んでいるという部分が琴線に触れたのです。

あ、ここがポイントだ!と思ったんですけど、困ったな。。。

なんて説明したら良いのか分かりません( ; ; )

えーっと、なんだろう?つまり、少なくとも古代とか中世の出雲の地の人々は、大物主一族、もしくは民の人な感じがする、でしょうかね?

あれ?よく分かりません、宿題にします(`・ω・´)+



そう言えば、奈良の地図って書く気にならないのですよ。

Googleの地図のリンクばかりなのはそのせいです。

大和の話って近畿地方の地理の理解がとっても重要なので、地図を書かなきゃいけないのは分かっているのですが、やる気が出ないというか・・・。

今まで散々めんどい図を書いてきたのになぁー・・・、なんでだろう?

私的には不思議な話です。



まぁ、という訳で大物主一族がミムロ山に居住し、ここから纒向市場を管理していたのだそうです。

なんで山を拠点に?って感じですけど、昔は奈良盆地は水害に襲われる事が多く、標高の高い位置に暮らした方が安全だったのだそうです。

それに市場を狙う輩も多かったようで、そのような時は山へと移動して戦った方が地形を知らない人達よりも有位に戦えたのだとか。

例えば磐余彦さんが初戦で長髄彦さんにあっさり破れたのも、地形を知らなかったが故でした。

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③の白肩津です。


その磐余彦さんが勝利を収められたのは、土地勘のある人達が天孫側に寝返って導いた事が大きく働きました。

その後磐余彦さんは磐余山を拠点にツバ市という市場を開きます。→google maps 磐余山(現・東光寺)

そして大物主さんが作った辰砂を尾根伝いに三輪山へ運ぶルートを、磐余山へ運ぶルートへと変更させ、纒向市場を閉鎖に追い込みます。

このツバ市は藤原京の廃止まで続いたそうです。



そう言えば書きそびれていた事がありました。

大物主さんが運営をしていたと思われる纒向市場ですが、この市場の事は「オオ市」と呼ばれていたのだそうです。

大物主の「オオ」ですかね?

あ、逆に大物主の「大」が、オオ市の「オオ」から来てるのかもしれません。

「物」は、古語辞典を開いてみると色々と意味はあるのですが、その中でも人に当てはまりそなものは、「人」「超自然的な力を持つ存在」「鬼神」「怨霊」と言うのがありました。

もし、大物主さんが人々に慕われ尊敬されて「大物主」と呼ばれるようになったのだとしたら、「超自然的な力を持つ存在」っていうのが当てはまりそうです。

「主」はそのまま「オオ市の主」。

これらを合わせて「偉大なる力を持ったオオ市の主」で「大物主」と呼ばれる様になった、という気がしました。

これだったら初代大物主、2代大物主とか代々受け継がれる名称でもおかしくないですしねぇ。



さらに言うと、辰砂は朱砂(しゅしゃ)とも呼ばれます。

そしてこの朱砂を扱った王として、「朱砂の王」との名称があってもおかしくありません。

で、「しゅしゃのおう」の響きが「すさのお」に似ていない事もない・・・。

「すさのお」=「須佐の王」という解釈もありますし、まぁなんとも言えないですが。

でも「朱砂の王」の息子が「オオ市の偉大なる主」っていう流れは、さもありなんです。


ひとまず大物主さんと三輪山は終わるとして、明日はどういう内容になるのか・・・。


*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*:;:*


それでは本日も良い一日を。

スーさん 「疲れた時には好きな守護存在の色をした光に包まれるイメージをしなさい」

musica 「来てくれるのですか?」

ス 「各々の個人的な守護を通してなんらかの癒しがあろう」


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by garoumusica | 2016-03-29 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)

月読のつっくん。

お絵描きに夢中で、気がつけば4時50分です。

とりあえず今描いている月読さんの絵でも。

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小さいサイズなので顔のアップです。

稲田姫物語でつっくんが使用していた団扇を持っています。

スーさんと兄弟という事なので、スーさんの要素を残しつつキレイにエロくしてみました。

初めは別の人を描いていて半年以上放置していたのですが、今回なんとなくつっくんに変更してみました。

あ、5時になるので今日はこの辺で・・・。


|・ω・)ノ[終]|・ω・)ノ[終]|・ω・)ノ[終]|・ω・)ノ[終]|・ω・)ノ[終]


それでは本日も良い一日を~。

スーさん 「集中して物事に当たるのは良いが、限度というものがある」

musica 「仕事とかなら時間配分を考えて行動しますが、プライベートはうっかりする事が多いかも」

つっくん 「仕事の自分もプライベートの自分も同じ自分である事を忘れずにね」



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by garoumusica | 2016-03-28 05:00 | らくがき | Comments(6)
あー・・・、晩御飯にクロワッサン2個食べたので胃がもたれて気持ち悪い・・・。

調子に乗るんじゃなかった・・・。

あー・・・。




はい、と言う訳で蓬莱山の続きです。

はー、不老不死の薬ですよ、水銀が。

今の私には不老不死の薬よりもガスター寄越せって感じですけどね。

で、水銀を不老不死の薬と位置付けたのが道教なんだとか。

なんでも水銀を主薬とする不老不死の処方は700を超えるとされ、処方の研究を練金道(術)と呼び、その成果の調合薬を「金液丹(きんえきたん)」と呼んだのだそうです。

その結果、紀元前200年頃から10世紀までに歴代の皇帝11人が水銀薬禍とみられる死に方をしているのだそうです。

この数字は多いのか少ないのか分かりませんね・・・。

と書いたところ、皇帝という立場の人間は、水銀中毒で死ねるほど平穏に生きられる事自体が難しかったのだ、だそうです。

なるほど、国と命を狙い狙われの商売ですもんねぇ。

水銀中毒で死ねる事自体少ないのか・・・。

死人を出しても衰えの知らない水銀信仰。

なんと!薬効が無いのは大陸産の水銀の質が悪いから!と考えられる様になったのだそうです。

なんて都合の良い考え方・・・。

で、最上級の物は蓬莱山のもの、その代用品として宇陀産の辰砂を、となったのだそうです。



蓬莱山と言うのは、中国、渤海にあったという伝説上の神山で、神仙(しんせん=仙人)が住み、不老長寿の薬があると信じられていたそうです。

蓬莱山・瀛州(えいしゅう)山・方丈山という山3つで三神山と呼ばれていました。

古代中国の歴史書『史記』にはこうあるそうです。


「三神山は渤海の中のあまり遠くない処にあるという。

そこに行った者の話では、三神山には多くの神仙が住み、不死の薬がある。

物や禽獣は皆白い色をしており、宮殿は金銀で出来ているという。

斎や燕の国王が使者をやって三神山を探させたが、船がそこに着きそうになると風で引き離された。

三神山は遠くから見ると霧のようだが、近づくと水面下にあるように見える。

そこまで行くと風が船を引き離して、到着出来た者は誰もいない」


もうね突っ込みどころ満載ですね。

「そこに行った者の話では」としながらも、「到着出来た者は誰もいない」とか言っちゃってますし。

「三神山は遠くから見ると霧のようだが、近づくと水面下にあるように見える。」っていうのも、これは蜃気楼の事なのだそうです。

蜃気楼を見て不老不死の薬がある場所だと言って、皇帝に多額の金を出させ船出する。

愚かですけど、この愚かさは現代に通じるものがありそうですね。

私もiPhone5が全然現役なのに、iPhoneSEのローズゴールドを仮予約しちゃって・・・。

壊れるまで使う主義で来たのに、ついつい目新しくって、色もかわいいし・・・。

4インチサイズがちょうど良いし、あー、もうどうしよう〜。

まぁそれは良いとして、今は不老不死問題。

元々あった東シナ海を渡っての日本との交易、それと蓬莱山が結びついたのが宇陀産の辰砂・水銀だったのだとか。



もちろん、辰砂・水銀の役目は不老不死の薬だけではありません。

近年だと体温計・蛍光灯・水銀灯・朱肉・水銀電池・赤チンだとか。

他にも殺菌・消毒作用を利用したシラミ取りだとか梅毒の治療薬だとか。

それにおしろいにも使われました。

古代では錬金術の他に、顔料して使われたそうです。

古墳の内壁や石棺の彩色や壁画に使われたり、漆器に施したり朱墨の原料になったそうなのです。

『魏志倭人伝』の邪馬台国の項にも「其山 丹(辰砂)有」と記されているのだそうです。



ちなみに『魏志倭人伝』の約400年前に、秦の始皇帝に命を受けて不老不死の薬を探しに来た人物に、徐福さんという方がいらっしゃいました。

そう、あの人です。

以前、一時的にスーさんに読むのを制限されていた本、『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』の人です。

ここでもなんとか物部氏と繋がりましたねぇ・・・。


あれ?ちょっと待って!?

今やっている内容は邪馬台国の時代の話ですが、徐福さんはその400年前?

あれ?大物主さんの時にはユダヤの人がとっくに入ってたって事ですよね?

待てよ、私が描いたユダヤ人顏のおーくにさんって、どうなるんですかね?

この記事を書きながら今気がついたんで、どうしたら良いのか分からないのですが。

あっれーーー!(@_@)

困ったな、どうするの?コレ。

スーさん!とりあえずスルーしちゃっても良いのですかね?

混乱したところで、また明日です!

とりあえず逃げるが勝ち!(`・ω・´)


(´ノ・ω・`)ノ・‥…━━━★゚+.・‥…━━━★゚+.・‥…━━━★゚+


それでは本日も良い一日を〜。

スーさん 「時と場合に於いては負ける事が勝ちとなる事がある。形勢を見極める様にね」

musica 「はい(`・ω・´) 」

ス 「形勢を見極めると言うのは、ただの精神的な逃げではないか見極める事も含めるぞ」



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by garoumusica | 2016-03-27 05:03 | 古代氏族 | Comments(0)
本日はミムロ山と大物主の関係について纏めていきたいと思います。




と言ってもまぁ、本に全部書いてある事なんですけどね→大和誕生と神々―三輪山のむかしばなし

さてさて、三輪山は古代ではミムロ山と呼ばれており、現在の様に禁足地ではなかったそうなのです。

禁足地などという制度(?)は、土地に対して所有意識を持った弥生人・大陸からの渡来人の制度で、縄文人にはその様な考えが無かったそうです。

それは何故かと言うと、縄文人の食料が木の実だとか魚だとか獣だったから。

季節が移り変わり食料が取れなくなると、その度に別の場所に移動する生活だったのだそうです。

自由ですねぇ・・・。

だから土地を所有するという習慣が無かったのだそうです。



しかし弥生人が渡来し稲作が始まると、その土地に定着する様になります。

安定して食料の確保が出来る様になったからです。

ですが、それでもまだ土地の所有などという考えは生まれなかった様に思われます。

アレです、以前稲荷神社について調べた時に出てきた、

「春に山の神が里に降りてきて田の神となり、秋に収穫が終ると山に帰る」伊奈利と稲荷、狐と空海、そして秦氏 その2。

という考えからも分かる様に、神様でさえ土地を所有していませんでしたもんねぇ・・・。



さてさて、大物主さん。

この方の部族はどうもミムロ山に暮らしていた様なのです。

なんでまた山に!?と思うところですが、この場所で管理運営をしていたそうです。

何を管理していたのかと言うと、宇陀・都祁(つげ)で産出される辰砂(しんしゃ)=水銀。→google maps 宇陀市


これも以前記事にしましたが、奈良の大仏建立で発生した水銀中毒の原因となったのが、辰砂でした。→伊奈利と(略)、更に荷田氏。本日は秦氏と水銀中毒。

で、何を運営していたのかと言うと、纒向市場です。→google maps 纏向遺跡

私はgoogle earthで見ていますけれども、これ面白いですねぇ・・・。

前方後円墳が可愛いです。



ところでこの辰砂・水銀、これを大陸の人達はわざわざこの日本まで購入しに来ていたのだそうです。

辰砂・水銀はもちろん大陸でも採れる訳です。

それなのに何故この島国まで大きな危険の伴う海路でわざわざ買い付けに来ていたのか。

それは不老不死のお薬だと信じられていたから。

そしてその最上級は蓬莱山で採れたもの、と言われていたからなのです。


明日も続きます。

ちょっと短いのはパソコンの不調のせいです・・・。


・。.:*(・ω・)・。.:*(・u・)・。.:*(・v・)・。.:*


それでは本日も良い一日を~。

スーさん 「『一月(いちげつ)往(い)ぬる 二月(にげつ)逃げる 三月(さんげつ)去る』という言葉を、先月の同じ日に言ったが、一日一日を大切に生きる事が出来たかね?」

musica 「あっという間に思えたから、そんなに大切にしていなかったのかな・・・」

ス 「そう思うなら今すぐ変えなさい」



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by garoumusica | 2016-03-26 04:59 | 古代氏族 | Comments(0)
物部氏を調べていたはずなのに、出雲の話題メインでその19まで来てしまいました。。。

自分でも何を調べているのかよく分からなくなります(`・ω・´)+





「ミムロ山(三輪山)と耳成山を結ぶ地域は磯城・十市と呼ばれる以前は出雲だった」

というキーワードですが、これってソースは何なのでしょうねぇ。

多分地元の伝承かなんかだとは思うのですが・・・。

だってこれってすっごいポイントです!(`・ω・´) 。

古代氏族物部氏 その15 実権を握っていたのは磯城?の巻。の記事でちょっと載せたのですが、2代綏靖天皇の奥さんは『日本書紀』第1の一書では磯城県主の娘となっています。

この時点で磯城っていう名前がある訳ですが、磯城・十市と呼ばれる前は出雲だったというのなら、神武天皇が東征する前のこの地は「出雲」だった事になるはずなのです。

あー、気になる~~~、ソースを確認したい!

奈良の民俗資料館に行ったら何が出てくるのかなーーー。

この本にはサラッとこの一言だけなので。。。



現在の奈良の出雲は桜井市のほんの小さな町ですが、磯城・十市が出雲だったのなら相当広い範囲だった事になります。

この本では、天孫族は自分たちの前に出雲族という有力な部族がこの地を納めていたという事実を消し去りたいが為に、出雲という地名を磯城・十市という名に変更し消し去ったと推測されています。

だとすると、その為に島根に出雲という地名と出雲神話を与えた。

そしてあえて神武天皇の皇后に出雲系の女性を残したのは、島根のオオナムジとミムロの大物主を関連づける為。

・・・もあるでしょうし、大物主一族が余りにも有力で人々の記憶から消し去る事が出来なかった為、仕方が無いので神武天皇の皇后をわざと出雲系の人物にしたとか・・・。

うーーーん・・・。



あ、そう言えば、島根の出雲に関する話題をひとつ忘れていました。

出雲の地名の由来で「出鉄(いづもの)から来ているという説」があると書いたのですが、その後に出雲国風土記の解説本にこのような内容の記述を発見してしまいました。

出雲といえば鉄と言うくらい産鉄地域のイメージが強いですが、実は7世紀以前の実態は分かっていないのだそうです。

奈良時代の列島内での最大の鉄の産地は吉備

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この図では備前・備中・備後・美作にあたります。


では出雲ではいつ頃から製鉄が発展したのかというと、古墳時代後期の6世紀後半から7世紀なのだそうです。

結構遅いですよね、意外でした。

これを考えると、出雲の国名の由来が「出鉄」っていうのはない気がします。

となると、イザナギさん由来か?ワカメ(藻)由来か?



この出雲国風土記の解説本では、『古事記』の崇神天皇の段に出てくる倭健(やまとたける)が出雲健(いずもたける)を殺害した時に詠んだ歌が挙げてあります。

「夜都米佐須伊豆毛(やつめさすいづも)」

という詩なのですが、これは「沢山の藻」を意味し、イヅモとは神聖な藻「厳つ藻」という意味である、との事なのです。

で、注として、これは5世紀頃までの話で7世紀以降は一貫して「出雲」であり、この頃には雲由来説が定着していた可能性が高い、との事なのです。

という事は、ワカメ(藻)説が有力ですね(`・ω・´)

まぁ、少なくとも出雲という地名はあったという事は分かりました。

あ!悲しい事に気が付いてしまいました・・・。

ワカメが有力って書いてしまったら、須佐之男命の日本初の和歌が嘘っぱちっていうのを強調してしまう事になるって気がついてしまいました ( ; _ ; )/~~~

すっごい複雑、何コレ、ちょっと酷くない!?スーさん!

やだー、これ以上夢を壊さないで欲しいーーー。

でも、明日はいよいよミムロ山と大物主と桜井市の出雲の関係を整理していきたいと思います。

これがまた面白いのです ( ; _ ; )


━―━―━[ JR ショボン駅 (´・ω・`) ]━―━―━


それでは本日も良い1日を。

musica 「理性と感情、そのバランスを取るのにこのシリーズが役に立っている気がします」

ス 「ははは、君がここ数年慣れ親しんだ出雲神の消滅の危機だからね。落ち着かないだろうが、事実は事実だ」

m 「はい。ほんの2〜3年前まで初詣にすら行かなかったのに、いつの間にか出雲神を身近に感じるようになっていましたから」

ス 「この様に感情が揺れる場面であっても理性を持って行動する事。感情はあくまで物事に対する反応に過ぎぬ。それに流されぬ様にね」

m 「はい」


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by garoumusica | 2016-03-25 04:59 | 古代氏族 | Comments(0)
はい、本日も野見宿禰(のみのすくね)さんです。




昨日は野見宿禰さんはどこの出雲から来たのか!?というところで終わりました。

島根県の出雲か?奈良県桜井市の出雲か?

ここでアレの出番です。

そうです!(`・ω・´)+

『出雲国風土記』!

垂仁天皇の時代は733年に出来た『出雲国風土記』より前なので、出雲出身の野見宿禰さんの偉業も載っているはず!

早速見てみると、ありました!



飯石(いいし)郡の山野の解説の項。

「野見、木見、石次(いわすき)の三野」



以上!これだけ!!!

・・・。

えー・・・(´・ω・`)。


ちなみ飯石郡はここ↓です。

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須佐之男命が魂を鎮め置き、自分の名前を付けた須佐郷がある所です。

野見野は飯石郡の一番下で、この図では切れています(`・ω・´)+




本当に野見宿禰さんが出雲出身なら、『出雲国風土記』にもうちょっと記載があっても良いのではないかと思うのです。

野見宿禰さんは天穂日命の14世の子孫で、第12代の出雲国造である鵜濡渟(うかつくぬ)の孫と言われていますから。

しかも、垂仁天皇に皇后である日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時に、それまで行われていた殉死(臣下を殺して古墳に埋める)の風習に代わる埴輪を提案した人物です。

この貢献により野見宿禰さんは土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、代々天皇の葬儀を司る事となりました。

お父さんである第10代崇神天皇がお亡くなりになったのが、258年だとか318年だとか言われていますので、この流れで言うと埴輪は3世紀後半から4世紀に創られ始めたという事になります。

考古学的にも埴輪は3世紀後半から6世紀後半にかけて造られたとの事ですので、合っていると思う事は思いますが、まぁ自信はありません(`・ω・´)+



ちなみに土師氏からは菅原氏・秋篠氏・大枝(大江)氏が派生します。

菅原氏と言えば菅原道真!

道真さんは埴輪関係の人だったのですね。。。

なんだか意外でした。



さてさて、こんな画期的な提案をした人物に関する記述が『出雲国風土記』に載らないはずがない!

載っていないという事は、やはり桜井市の出雲の人なのか。。。

あ!そう言えば野見宿禰さん、垂仁天皇から殺しちゃった當摩蹶速(たぎまのくえはや)さんの土地を貰ったんですよ。

その場所はどこなのか調べてみたいと思います。



与えられた土地のあった當麻邑(たぎまむら)は、現在の奈良県葛城市當麻に位置するのだそうです。→google maps 奈良県葛城市當麻

広域で位置関係を確認してみますと、三輪山の真西に位置しますが大阪寄りですね。。。

野見宿禰さんを調べるきっかけとなった、

「ミムロ山(三輪山)と耳成山を結ぶ地域は磯城・十市と呼ばれる以前は出雲だった」

とは、ちょっと離れていますね・・・。→google maps 奈良県橿原市木原町 耳成山

うーん、与えられた當麻邑に自分の出身地の出雲の名をつけたって言うのなら分かりますが、離れてるかなぁ、許容範囲かなぁ。。。



で、もう一度『日本書紀』を見てみたところ、

野見宿禰さんに當摩蹶速さんの土地を与えた事が、「腰折田(こしおれだ)」という場所がある所以である

と書いてありました。

この腰折田はどこにあるのでしょうね・・・。

調べてみましょう!

どうやら奈良県香芝市良福寺付近に、腰折田伝承地の看板があるようです。→奈良県香芝市良福寺

ここから耳鳴山まで車で約30分→google maps 良福寺から耳成山まで 

うーん、許容範囲?


明日も続きます。


*:.。..。.:*ヽ(*゚∀゚)ノ*:.。..。.:*ヘ(゚∀゚*)ノ*:.。..。.:*


それでは本日も良い一日を~。

musica 「最近、陽のある時は本を読んでいる事が多いのですが、昨日は何故か早めに記事を書かなくちゃ!って気になったので、陽のあるうちにこの記事を書いたのです」

スーさん 「うむ」

m 「それで何だったのかな~って思っていたら、夜になって急にアクセサリーの創作意欲が湧いてきまして。その作業に没頭しました」

ス 「それは自分自身のこれからを予期しての行動だ」

m 「まさかの予知?」

ス 「その呼び名が嫌ならば、情報をキャッチした、でも良い」

m 「あー、そっちの方が響き的に落ち着くかも」


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by garoumusica | 2016-03-24 04:53 | 古代氏族 | Comments(2)
本日は奈良県桜井市の出雲に関して調べてみます。





地図を地形表示でご覧いただければお気づきになるかと思いますが、一部は三輪山と尾根続きの場所です。

三輪山っぽいですけど、ここの名称は巻向山になるようです。

なるほど、三輪山の大物主由来って感じがしますね・・・。



この場所にはダンノダイラというヤマトの原住民族の聖地があります。

youtubeに写真をまとめたものをUPされていました!→古代イズモ族の聖地 ダンノダイラ

磐座信仰です。

三輪山自体にも磐座信仰があって、各自の好きな岩の側に卵を供えるという風習があるそうです。



さてさて、この様な場所に出雲がある訳ですが、この出雲の伝統工芸品は「出雲人形」→出雲人形画像

この出雲人形の由来はと言うと、なんと!

相撲の元祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)の作った埴輪!

それではニューフェイス・野見宿禰さんについて調べてみたいと思います(`・ω・´)+



野見宿禰さんは『日本書紀』の第11代垂仁(すいにん)天皇の所で出てきます。

即位7年秋7月7日、垂仁天皇と御付の者達が、強さが自慢の當麻邑(たぎまのむら)在住の當摩蹶速(たぎまのくえはや)の噂話をします。

御付の者達 「日頃から周囲の人に『強い者に会って、生死を問わずに全力で力比べをしたいものだ』と言っているそうですよ」

垂仁天皇 「私も聞いたぞ。誰かこれに並ぶ者はおらぬか?」

別の人 「出雲国に勇士がいます。野見宿禰という者です。試しにこの人物を呼び寄せて、蹶速と戦わせてみたいものです」

垂仁天皇 「呼んで」

という訳で、即日、倭直(やまとのあたい)の先祖の長尾市(ながおち)を派遣して、野見宿禰を呼び寄せました

早速相撲を取らせてみたところ、野見宿禰は當摩蹶速の肋骨を踏み折り、更にその腰を踏んで折り殺しましたとさ。

めでたしめでたし☆



えー・・・、って感じですね・・・。

初期の相撲って激しかったようです。



さてさて、上の文章で出て来た、

即日、倭直(やまとのあたい)の先祖の長尾市(ながおち)を派遣して、野見宿禰を呼び寄せました。」

という文章の「即日」という言葉。

この即日の取り方で出雲の位置が変わってきます。


「この話をした当日に出雲国へ使いを出しました」

↑だと、出雲国はいつもの島根県。


ですが、これ↓だと場所が変わります。

「この話をした当日に野見宿禰を天皇の元へと来させました」

このふたつ目の解釈だと、島根の出雲国から当日に到着する事は無理です。



以前描いた運脚日数の図。

f0351853_03372783.jpg

京ですけど、まぁどんまい。

徒歩で大体20日位かかります。

が!野見宿禰が、桜井市出雲在住だったらどうでしょう。

当日でも行けるんじゃないですかね?


明日も続きます。


◎・v・●・v・○・v・◎・v・●・v・○・v・◎・v・●・v・○・v・◎


それでは本日も良い一日を!

スーさん 「朝晩の寒暖の差が激しい。着衣に気をつけなさい」

musica 「喉が痒い・・・」

ス 「それは花粉だね」



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by garoumusica | 2016-03-23 05:07 | 古代氏族 | Comments(0)
本日も古代氏族シリーズの続きです。

前回↓。




昨日は「島根の出雲と奈良の出雲、どっちが先なのか!?」で終わりました。

えー、これってどうすればいいの!?とスーさんに聞いてみたところ、



スーさん 「出雲の地名の由来について調べてみた事があるかい?」

musica 「八雲立つ~ 出雲八重垣 妻籠みに~、でしょ?」

ス 「それはあくまでも神話であろう?」

m 「まぁ、そうですけど・・・」


という事で、出雲の地名の由来をまず調べていきたいと思います。



「出雲」

調べてみますと何種類か意味がありました。

漢字のあて方によって意味が異なるようで、


出雲:雲が湧きあがる様子

稜威母:イザナミへの敬意

稜威藻:龍神信仰


こんな感じです。

それにしても3つ目の稜威藻の龍神信仰って面白いですね。

なんでも、藻草の神威凛然たる様を表しているそうです。。。

藻草に対して神威(神の威光・威力)を感じ、凛然(凛々しく勇ましい)と思う感性が、私とは違いますね・・・。

なんでしょう?

ワカメが海底でゆらゆら揺らめいている姿を、龍神と重ねたのでしょうか・・・。

素晴らしい感性ですね。



あ、あともうひとつ「いづも」の由来がありました。

出鉄(いづもの)から来ているという説もあるのだとか。

なるほど、確かに出雲は砂鉄から鉄製品を造る「たたら製鉄」が盛んでした。

出雲系と言われる神武天皇の皇后の名前にも、たたらが入っていましたし。

更には良質な砂鉄が採れていたそうですから、「鉄が出る」という地名でもおかしくなさそうです。



ですが、古代には「出雲」という地名が無かったらしいのです。

ではいつ出雲という地名が付いたのかというと、おそらく大化の改新。

国や郡を制定した時に付けられたのだろう、との事なのです。

f0351853_02154770.jpg

漢字二文字なのも、この時に中国を真似て名付けたからだとか。

なので、それを考えると「出雲」という漢字の組み合わせと意味も、その時造られた可能性が高いのでしょうか・・・。

えー・・・、スーさんの詠んだ「八雲立つ~」が消えてしまうのは寂しい・・・。

更に私に追い打ちをかけますと、古代出雲は出雲+伯耆でひとつの国だったのだとか。

ですが大和朝廷の弱体化と共に出雲と伯耆に分けられたのだそうです。



結局のところ、出雲がいつから出雲と呼ばれるようになったのか、よく分からないままです・・・。

手がかりとなりそうだなと思うものは、『魏志倭人伝』に出てくる国名でしょうか?

『魏志倭人伝』には約30か国の名称が出てきます。

なんと!それを表にまとめられている方がいらっしゃるので、リンクを貼っておきます。→邪馬台国30国一覧表

素晴らしいですね!

この中に出雲の古代の名称があるかもしれない・・・。



明日は出雲に対して奈良の出雲です。

これがなかなか興味深いのですよ!


(o・ω・o)ノ++++++++++ヽ(o・ω・o)


それでは本日も良い1日にを~。

ス 「連休明けで月曜日の憂鬱ならぬ、火曜日の憂鬱に陥っていないかね?」



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by garoumusica | 2016-03-22 05:00 | 古代氏族 | Comments(0)

目に見えない厳ついおっさんと絵描きの会話。それから大変申し訳ありませんが、本サイト内の画像、写真の無断転載・転用を禁止させていただいております。


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